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2010.03.11
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カテゴリ:内山の歴史
ユっぴー・コスモスです。

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お船祭りの御船

        「お船祭り」の「御船」 (2008年4月28日ユっぴー撮影)
         「お船祭り」は、内山「荒船山神社」の、春のお祭りです。
         昔は馬で引いていたそうですが、今はトラックで運んでいます。


『月刊こすもす』(プリントショップコスモス提供 内山限定の新聞)
2007年9月号に掲載された、
羽毛田(はけた)卓也さんの、歴史・自然エッセイ
を、ご紹介します。

       ~~ ★羽毛田さんの、自然・歴史エッセイのコーナー★


(Web上で読みやすいように、ユっぴーが改行・行空け等しています。)


---- 荒船山と古代の信仰のはなし その5 荒舩山神社 ----


今回は荒船山の山頂に祀られている
荒船明神
についての話をします。

荒船明神は3人の女神
(好美女、美且、美好)

によって成り立っていたことを前回までに説明しました。

当初は荒船山一座で三柱の神が祀られていたと考えられます。

佐久の内山の里に
「荒舩山神社」祭神として遷座してきたのは
荒船明神で、
富岡の里へ 「貫前神社」 の祭神として遷座していったのが
姫大神(貫前神・抜鉾神)
となりましょうか。

両神社ともに 里宮 と位置づけられ、
奥宮 は荒船山頂の荒船明神となります。

内山地域と
富岡地方(広く考えると藤岡市の東部・吉井町・富岡市・下仁田町・南牧村)
で同じ信仰に基づく神様を
祀ってきたことになります。

つまり、同じ信仰・氏神をもつ
ごく近い間柄の氏族が
内山峠を跨いで暮らしていたとも言えます。

この峠を跨いだ信仰は、
佐久地方ではもう一ヶ所存在します。
軽井沢と松井田の国境(くにざかい)にある
熊野皇大神社 です。

(長野側では「熊野皇大神社」と呼ぶのに対し、
群馬側では単に「熊野神社」と呼びます。)

内山の「荒舩山神社」には現在
様々の神様が合祀されています。

古くには
「建御名方命(たてみなかたのみこと)」
「八坂止女命(やさかとめのみこと)」

が合祀され、
明治41年に村内に散らばっていた14柱が合祀されました。

「貫前神社」の姫大神について、
その地方を支配した権力者の氏神である
「經津主神(ふつぬしのかみ)」
が被せられていることを話しましたが、
「荒舩山神社」においても
同様に権力者により 諏訪信仰 が被せられています。

それは「貫前神社」と同じ頃、
信濃国の内の一国として佐久が統一された頃、
5・6世紀頃ではないかと思われます。

大和王権の尖兵たる信濃の国造の支配により被せられた信仰が
荒船信仰と関係が無いにもかかわらず、
その矛盾を抱えながらも 荒船山 を信仰の拠り所・御神体として
祭祀を行って来ているのです。

つまり、
信濃を統一した国造らに
彼ら一族の信仰を支配の証として強要されたけれども、
本来の信仰の根っこを変えずに、
融合を図りながら信仰を守り通した
と言えましょう。

それは 「貫前神社」 を祀る人々も
そうでした。

支配はされたけれども信仰は捨てないぞ
という誇りさえ感じます。

信仰はその時々の支配権力者により
大きく改変されて行くのは仕方ないことですが、
この荒船山に対する信仰は
確実に現在まで続いているのです。

つまり
平安時代の神仏習合の危機や
中世の戦乱による人々の離散、
中世から盛んになった荒船修験道の混乱期、
江戸仏教の隆盛、
廃仏毀釈、
明治期の村社合併
を経てもなお、
この地方に荒船山の信仰を心に持った人々が少なからず残ったこと
を意味します。

荒船信仰を支えていた人々が
歴史の中で消滅してしまっていれば、
別の新しい信仰に置き換わっているはずですから、
少なくとも5・6世紀からの人々の歴史が
今に繋がっていることを意味します。

内山地域と富岡地方は
同じ渡来系の氏族で結ばれ、
同じ信仰で結ばれ、
頻繁に人々が行き来していたことは
たやすく想像できます。

縄文・弥生時代の物流の道であった街道は、
古墳時代にも信仰・物流の道として、
中世から江戸時代にも物資・人々の行きかう重要な街道として、
佐久では 富岡街道 と呼ばれ、
上州では 内山街道・信州街道 と親しく呼ばれ
今日に至っています。

皮肉なことに長野県下一の東西物流ルートとしての
「トラック街道」
として全国的に有名になってしまいました。

小中学生向けの市販の教材には
関東と内陸を結ぶ大物流ルートのひとつとして、
「コスモス街道」「トラック街道」
として登場しています。

「荒舩山神社」の祭日
陰暦3月15日(陽暦で4月15日)で、
祭りの内容は
大間の拝殿より一の鳥居のある相立まで
御船を行幸(みゆき)していました。

その行幸の様子は郡志等に記載されています。

  「先頭に御榊の車二両、
  次いで金襴吹流付の鉾車一両、
  太鼓を抱えた神職の騎馬、
  笛を吹く神職の騎馬、幣帛を携え振る宮司の騎馬、
  最後尾に御船神輿を御綱によって牽く子供
  と、
  村人を含めた大行列で、
  大間より相立に向かい、
  一の鳥居拝殿において祭祀を行い、
  湯立の祈祷を行った」

今ではかないませんが、
その豪華な行幸を
ちょっと見てみたかったなあと思います。

湯立は 探湯(くがたち) のことで、
諏訪大社のものが有名です。

神意を得るために
湯の中に手を入れて正否吉凶を占う神事です。


       湯立の儀

       ★上と下の写真~湯立(くがだち)の儀 2008年4月28日ユっぴー撮影

       湯立2


この
大間から相立の拝殿に向かう
という行為は
大変重要なことです。

大間の社地からは荒船山の御姿は拝めないのですが、
相立の拝殿からは
立派な荒船山を拝むことができます。

山頂の荒船明神を迎える大切な祭事だと考えられます。

大切な水と
それを懐から出し続ける荒船山を
大切にしよう
という信仰とお祭りが、
いつまでも平和的に続けばいいなあと思います。


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最終更新日  2010.03.13 09:42:40
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