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カテゴリ:哲学的お悩み&お笑い
人間は必ず、いつか死にます。 しかし、よっぽどの事が無い限り、死ぬような事はありません。 (“よっぽどの事が無い限り”とは、「死ぬような事がない限り」という意味です) よく、「あっけなく死ぬ」と言われますが、原因も無く突然死ぬ事は、ほとんどありません。 その証拠に、朝、目を覚まして「あれっ、今日も生きている」と驚く人はいません。 (「あれっ、今日は死んでいる」と驚く人もいませんが) このように、人間は行き続ける方が普通です。 だからこそ、人が突然死ぬと驚くのです。 行き続けるには、特別な原因は要りませんが、死ぬためには、何らかの特別な原因が必要です。 人間は死に難いにも関わらず、コンピュータやテレビのような機械と比べ、作り方は驚くほど簡単です。 コンピュータを一台作るのは非常に難しく、高度の知識が必要です。 「鉄板を一枚作れ」と言われても、どうやって作ったらいいのか途方にくれるのです。 それに対し、人間を一人作るには、たいした知識も要りません。 (知識が無いほうが、作れてしまうほどです) 我々は、このように死に難い構造に生まれついていることを自覚しており、めったなことでは死なないと信じて生活しています。 「明日も生きているに決まっている」と信じているからこそ、勉強をし、宿題をし、三ヶ月定期を買い、働き、貯金し、明日のおかずを作りおきし、バーゲンで買い物をし、あらゆるモノを手に入れようとしているのです。 このため、我々は、ともすれば、明日も自分が生きているのを当然だと思い、いつかは死ぬという事実を忘れてしまいがちになります。 これに対して、古来、多くの人々が「死を忘れるな」という警告を発してきました。 (ジャスミンさんが詳しいかも知れませんが)ヨーロッパ中世絵画には、通常の絵の隅に髑髏を描いて、死を思い起こさせる趣向のものがあります。 このように、警鐘が鳴らされるには、理由があります。 死を忘れていると、生きていることの在り難さを忘れてしまう。 死に直面する時、初めて人間は生きる事の大切さを知ります。 それまで、異性に恵まれていない、顔が気に入らない、人生が思うようにならない、家庭がうまくいかない、お金が無い、と不満ばかり言い、目先の利益に一喜一憂している人が、死を意識すると一時的に真人間に戻り、それまでの生活を悔い改め、自然の美を見出し、隣人愛に目覚め、周囲の人に感謝するのです。 人間が愚かな行為をするのは、「命の掛け替えのなさ」を忘れているから、という部分もあります。 死と向い合って生きるのが人間のあるべき姿である。 こう考えられるのです。 この考え方には、もっともな所があります。 実際、我々の日常の行動の中には、死から目を背けているとしか思えないものがあります。 心情的にも、夏休みを遊んで過ごし、休みが終わる頃になって「早めに宿題をしておけばよかった」と悔い改める経験をした人には納得しやすいでしょう。 明日かも知れない死を意識すると、どのような生活になるでしょうか。 昼寝をする、浮かれ騒ぐ、ギャンブルやゲームにのめり込む、気楽に酒を飲む、といった事には無縁になり、何よりも時間つぶしをしなくなるでしょう。 だらだらした生活は一変し、無為に時間を浪費しなくなり、濃密な時間の中で生活するに違いありません。 その替わり、仕事や夏休みの宿題に力を注ぐ事も無くなるでしょう。 たぶん、私のページか詩集でも読みながら、人に愛情を注ぎ、親に感謝の手紙を書き、遺書を書くでしょう。 しかし、このように清らかな生活になるのは、たんに、死に直面すると、物欲や執着が薄れ、自己中心的な悪い事を考える余裕が無くなるからではないでしょうか。 もっと余裕が無くなって、三日後に巨大隕石が地球に衝突して、人類が絶滅することが分かったら、人々は自暴自棄になって、目先の欲望を満たそうとして行動し、盗難、強盗、略奪、レイプ、殺人などを引き起こし、この世は阿鼻叫喚の地獄と化すでしょう。 こういう事態でなくても、詩集と隣人愛は、長くは続かないでしょう。 人間が愚かな行為を繰り返すのは、死を恐れるからでは無く、たんに「根が愚かだからだ」と思われるのです。 こう考えると、死を考え続けるのも、考えものです。 死を全く考えない「子供や動物が幸福そうに見えるのは、なぜか」を考えたほうがいいと思います。 ≪追記≫ この文章の中には(いつものように)、哲学的解答も、普遍的な真理も、宗教的な救いも、私の主張も、まったく込められていません。 暗に何かを主張し、暗にそれを皮肉っているように読めるかも知れませんが、何事も複雑に考えない「子供や動物が幸福そうに見えるのは、なぜか」を考えてみたほうがいいと思います。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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