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カテゴリ:哲学的お悩み&お笑い
私は説明が嫌いです。
よく説明を求められますが、説明を求められる状況というものが、一度として楽しかったためしがありません。 第一、説明を求められることが、「何をしていたか」とか、「誰と会っていたか」など、説明に窮することばかりなのです。 何とか説明しても、楽しい結果になることは絶対ありません。 不十分な説明では怒られるし、十分に説明すると、もっと怒られるのです。 もともと相手は、何かが気に入らなくて説明を求めているのですから、楽しくなる訳がありません。 しかし、どうして自分が嬉しい時には説明を求めないのに、気に入らないことがあると説明を求めるのか、説明を求めたいところです。 私は説明を聞くのも嫌いです。 こちらが説明を要求していないのに、「一言説明させて頂きますと」という発言があると、その後には決まって退屈な話がきます。 (その発言の前にも退屈な話がきます) 説明の最も悪いところは、信用できないということです。 信用できないのは私の説明だけではありません。 ほとんどすべての説明がインチキくさい。 現在、一般的に受け入れられている説明によれば、あらゆる出来事は、人心の荒廃か、環境の悪化か、運命のいたずらのせいだとされています。 しかるに、私の周りの人に、いくらこの三つを使って、じゅんじゅんと説明しても絶対に通用しないのです。 これだけでも説明というものの胡散臭さが想像できますが、それにしても納得できない説明が多すぎます。 たとえば「若いうちしかできないから」という説明などはその典型です。 このように説明されるのは、深夜に家を抜け出してバイクを走らせるとか、体にスミを彫るとか、軽率で愚かな行為に限られるのです。 確かに、これらは若いうちしか出来ないことかも知れませんが、若いうちしか出来ないのはこれだけではありません。 歴史の年号を覚えるとか、親孝行するとか、若死にするなど、他にもあるのに、そういうことは積極的にしようとはしません。 「私は愚かだから」と説明した方が、よっぽどすっきりします。 年をとった者の説明もインチキです。 「もう年だから」と説明して、体力を要求する仕事を拒否したり、町内運動会に出るのを断るくせに、深夜まで遊び歩いたり、買春ツアーに出かけたりしているのです。 こんなインチキな説明がまかり通っているのに、どうして同じくらいインチキな私の説明が通らないのか、謎としか言いようがありません。 物理学や数学のように厳密な説明もありますが、一般人の理解を超えているし、私の理解をも超えていて使い物になりません。 このように、説明は、納得できないか、理解できないか、苦しいかのどれかです。 それなのに今の世の中は、説明すべき人が説明しない一方で、天気や経済から、スポーツの勝敗、芸能人の離婚にいたるまで、あらゆる現象に説明がつけられ、それを評論する人まで存在します。 科学的に説明できない現象さえ、カーテンの色などで説明されるのです。 なぜ、ここまで説明がはびこるのか、こういう事態こそ、説明が必要です。 たぶん、人心の荒廃か、環境の悪化か、運命のいたずらのせいでしょう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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