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カテゴリ:哲学的お悩み&お笑い
気が滅入っているのは、このところの天候不順のせいばかりではありません。
しかし個々の事情や、個人的状況や、お腹の出っ張りはどうあれ、もうすぐ夏になります。 帰省する人、受験がある人、忙しくて夏どころじゃない人、一年中夏休みのような人、一年中夏休みだったらいいなぁと考えている私、休みはともかく四季のある日本では、ほぼ一年に一度、いやおうなく、だれかれ構わず夏が訪れます。 若かろうが若くなかろうが、夏といえばビーチとビールでしょう。 たしかに若い時分の自分のような楽しみ方を目指すのは無理があるかも知れません。 しかし、失ったものを嘆いても青春の浪費というものです。 残された余命が少ない中年には時間が限られているのです。 中年の男は攻めるしかありません。 (中年の男には攻める時間しかありません) (待っていても誰も来ません) 夏の海には何かが待っているに違いないのです。 果敢に立ち向かえば、必ずや、海における自己の価値観や、自己実現の方法が見つかるはずです。 来たる夏に備えての心得を『生の肯定』を力強く訴えたニーチェの思想から、抽出してみましょう。 夏の海に出かけるとき、(愚かにも)男は、ビーチの力、夏の海の雰囲気などに過剰な期待を寄せがちです。 自分の力量は棚に上げて、都合のいい夢を抱かずにはいられません。 しかし年齢とともに、気力も可能性も小さく萎んでゆきます。 (体は弛んでゆきます) もちろん、若い頃だって、旨くいったわけではないのですが、「夏のビーチの神様」の力を信じていました。 そんな“信仰心”が消えてしまったからといって、海へ行かないと言うのは、未熟で短絡的な逃避です。 ニーチェは、多くの人が神を信じてもいないのに、とりあえず宗教の価値観に縛られて生きている状況を激しく批判しました。 ニーチェは『神は死んだ!』と宣言して、自分の価値観を探す必要性を訴えたのです。 若いとは言えない私(と、その他大勢の人)は、「夏のビーチの神様」の死を自らに宣言しましょう。 例え、ビーチの神様の力が存在していたとしても、その恩恵を受けられるのは、残念ながら、私よりお腹が平らな、成長途上の青くさい連中です。 失ったモノへの未練をすっぱりと断ち切ることで、ビーチにおける自分なりの価値観や、新たな喜びが見えてくるはずです。 (新たな女性も見えてくるはずです) そんな気持ちで辺りを見まわすと、さしあたって目に入るのは、ピチピチの水着姿の群れです。 (なかには、水着が張り裂けんばかりにピッチピチの一群も棲息しています) 野心や邪心を捨ててみれば、女性の造作や年齢の幅に係わらず、どの水着姿も有りがたく感じられます。 ああ、なんて素晴らしい境地でしょうか。 半端にナンパな気持ちを持っていると、幻想を抱いて目をギラつかせている若者に対して、「女にガツガツして、みっともない」とか、「若いのに痩せすぎだ!もしも遭難したらオレの方が生き延びるに違いない」とか、「そんなに肌を焼くと、中年になってオレのようにシミができるぞ」とか、ドス黒い気持ちを抱いてしまいがちです。 それは、ニーチェ言うところの『ルサンチマン(弱者の強者に対する憎悪と怨恨)』に他なりません。 しかし、神の死を宣言してしまえば、そんな若者を素直な気持ちで応援できます。 万が一、驚くような上玉を連れ去ったとしても、「どうせ、散々おごらされて逃げられるに決まってる」と最悪の展開(自分にとっては最良の展開)を予想することが大切です。 ニーチェ的な『積極的な意味を持つニヒリズム』とは、きっとそういうことに違いないのです。 「ねえ、みんなで海に行かない?」 このセリフは、何も若者の専売特許というわけではありません。 若くないなりに、ビーチを満喫する方策を探るために、あえて果敢に、もう若くない男女ばかりで海に行くという荒業に挑んでみるのも一興でしょう。 たしかに、想像してみても、絵になる光景ではありません。 しかし、ニーチェは言いました。 『脱皮できないヘビは死ぬ』と。 自分を乗り越えて強くなろうという『力への意志』を持たない人間に未来は無いのです。 若くない者同士の場合、みんなで水着姿になるだけで、移ろい変わってゆく無常の境地を感じられたり、人生の虚しさを思い知らされたり、現実の自分と対峙できたりするのが、若者には不可能な、最も有益な点と言えるでしょう。 ニーチェが『ツァラトゥストラはかく語りき』の中で言った、「これが人生だったのか。よし、ならばもう一度!」という気持ちが、ふつふつと湧き起こってくるはずです。 具体的な行動としては、たとえば海の家で、バイトの女子高生にビールを注文しながら、(ご機嫌な調子で)「お、夏休みのバイトか?精が出るねえ。感心、感心」などと声を掛けるなどという芸当は、若い女性を連れている若い男には絶対に真似できません。 砂浜で、何十年ぶりかで砂に埋めてもらって、「子供の頃に返ったような気分だ」と言いながら、その舌の根も乾かないうちに、「ソコはもっと高く砂を盛り上げてくれないとリアルな膨らみにならないじゃないか」といった楽しいセリフは、若者には言えません。 (言いたくもないでしょうが) いずれも、極めてオヤジ臭い行為ですが、敢えて勇気を振り絞って、恥ずかしさに打ち勝って口にすることに意義があります。 若くない者同士の海辺は、オヤジという新しい境地に脱皮する絶好の機会です。 オヤジとは、自分の運命を肯定しつつ、従来の自分を超えようとするという意味において、ニーチェが理想の生き方とした『超人』そのものなのです。 ただ、こちらは、そこまでの高い理想と、深い思慮と、大きな考えで、敢えて行動しているのに、周囲は何の違和感も無く、「マッケンジーの言いそうなこと」と、“いつものこと”とでもいうように、自然に受け止められてしまう可能性もあります。 ただしその場合は、いつの間にか“新たな境地に達していた自分”を祝福してあげれば良いだけなので、まったく心配はいりません。 ≪註‐1‐≫ 【ニーチェ】 ドイツのザクセン州に牧師の子として生まれる。 二十五歳で大学教授になったものの、哲学にはまって大学を辞め、各地を放浪。 さほど注目されないまま、多くの著作を生み出す。 最期の十年ほどは精神に異常をきたし(原因は梅毒だったといわれる)、自分が評価されるようになったことも知らないまま世を去った。 ≪註‐2‐≫ ニーチェは、結婚や恋愛がらみの名言を数多く残しています。 といっても、彼は生涯独身でした。 彼が恋愛でひどい目に遭ったエピソードは有名です。 彼の言葉に恋愛問題解決のヒントを読み取るのは自由ですが、少なくとも彼は恋愛の巧者でも、恋愛の達人でもなかったようです。 (言うまでもないでしょうが、私も同様です) 少なくとも、彼の言葉や、私の解釈を、ビーチで実践するには、自分の責任において自己の人格を賭けて、試みて頂きたい。 実践による皆様の成長を祈ります。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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