カテゴリ:思想
宮台真司氏・・・著作はこれまで読んだ事は無いし、ラジオでのコメ ントも偶発的にヒットした時に聞く程度。ネット動画も気の向いた時に ランダムに観る程度なのだが、実はこれまで多くの分野での「認識の多 様性」、間単に言うと「現象に対する切り口の差異」を感じる機会を与 えてもらっている。一例として、現状でよく話題にあがる「再配分」に 関しても、その重要性は理解していてもその「正当性と可能性」につい て考える事は無かったし、再配分する側の効用に着目する視点も私は持 ち合わせていなかった。気がついたら「社会学者・宮台真司」に結構影 響を受けている自分がいた。 この本を読み終えて大方は「我が意を得たり」という偉そうな?感想を もったのだが、それでも印象に残った「文学かよ!」という突っ込みを 入れようとした矢先に「あとがき」で交わされて苦笑いした。成る程、 頭の良い奴(失礼)というのはここまで用意周到なのかと関心した次第。
この本をネタに暫く日記を書こうと思っている。選挙結果ともうまく 絡めそうな気がするが、まずは以前から気になっていたこんなワードか ら・・・
【ポストモダンへの誤解】 独学であり故の浅学ではあるが、過って、ヘーゲルに傾倒していた私 にはこのポストモダンと称される思想群が陳腐なものに映っていた。哲 学という括りの中での言葉のゲームは科学で言えば「基礎研究」にあた り、必ずしもその理念が社会で消費される事を前提とはしないが、社会 学と名乗る限りはその思考・方向性が社会に反映され消費される概念を 構築出来なければならないと思っていた。「ヘーゲル的」なものを徹底 的に批判した「ポストモダン的」なものを私は「社会認識学」と解釈し、 「認識の多様性」だけに留まり、具体的、実効性のあるルールを構築し えない、実存と自己愛に偏り過ぎた思考体系だと疑問を感じて来た。 まぁ、人は学習により周りの環境と共に成長する・・・ 近代が成熟爛熟していく果てに必ずポストモダン的な状況が「否応無く 来てしまう」という不可避性、ポストモダン的な思考がそれを克服する 事が出来ない不可能性を、自分自身が生きて来た「現代」(ポストモダ ン的時間)として捉え認識出来た時、ポストモダンという括りの思想の 出現した必然性と役割の様なものが感じられた気がした。 「日本の難点」のキーワードは「再帰性」「不可能性と不可避性」かな と思うのだが、誤解を恐れずに簡略化してしまうと「堂々巡り」という 事だろう。その否応のない「堂々巡り状態」を如何に飽きずに繰り返し ながら良き状態に保つかに苦心する様をポストモダン的なものに見てと れる様に思う。 考えれば、封建社会以降、「社会契約」や「個の自由」の原理が打ち立 てられた瞬間からも、最終的には個人の共同体における「公民的モラル」 「利他性」に頼らざるを得ないという認識があったという事実は動かし ようがない自明のものだと考える。 ここにこそ「再帰性」と「不可能性と不可避性」の種が潜んでいる。 現実への対応として宮台氏の言う「包摂的社会」の実現の為の「どんな モラル」を「どんな方法」で社会や人に埋め込んで行くか。「利他性」 でさえも善悪の二元論で形はつかない。「他」の部分の質と量によって 変容する認識は必要だろう。戦時中の帝国日本等はこぞって「利他性」 に溢れた国民だったと解釈も出来るのだ。 近代以降の「堂々巡り」の有効な「巡らせ方」を我々は見出せず、ヘー ゲルでさえ(私はヘーゲルだからこそとは思わない)「国家宗教的方向 性」を模索するに至った。それ故のポストモダン的視点・批判的視点の 必要性・必然性はあったのだと現在は感じている。
ただ、ここまで書いて来て浅学を曝け出す様で恥ずかしいのだが、年齢 と共に頭が固くなり現代思想についていけず、ポストモダンと聞いても フーコーとデリダ位しか名前が思いうかばなかった。おまけにこの二 人に関しても表層をなぞっただけでニーチェやパタイユとのハッキリし た差異を感じ取れている訳でもない。その程度の知識を一般論に乗せて 書きなぐった次第・・・。
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最終更新日
2009.08.28 02:38:58
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