テーマ:徒然日記(23463)
カテゴリ:思想
以前の日記にも書いたが、27日に麻雀漫画の主人公である赤木しげる の法要が行われた。我が家には「アカギ」も「天」も「カイジ」も全巻揃ってい て家族全員が愛読者なのだが、典型的な「おたく」である我が家の長女は 喪服を着て参列し、顕花してきたらしい。
漫画のキャラクターの法要というと過去には「あしたのジョー」の力石とおる や「北斗の拳」のラオウが思い浮かぶ。「アホらし!」と思うむきの人も多い と思うが、私は参列まではしないが解かる気がする。 人間は「自分の想いに対する共感」を得たい動物なのだ。
福本伸行は麻雀やその他の賭博を題材に、すでに歴史的・社会的にも自 分自身にとっても自明ではあるハズなのに抗うことが出来ない「人として救 われない部分」に焦点をあてる。「カイジ」が抗えずに彷徨う姿を描いた共感 的作品なのに対し、アカギは「揺るがない存在」・「強者」として望まれる 「在りたい姿」を描く羨望的作品といえるかもしれない。
「天」という「アカギ」の大元の作品で赤木しげるが死に至る場面があるの だが、私はそこでの作者の想いに大いに共感を覚えると共に、人の世の不 条理さえ「個」の内部で一般化してしまう「超人」を描きたかったのかな?と 考えた。神や悪魔では無い、人として到達できるかも知れぬ「超人」だ。 赤木しげるは何にも縋らず頼らない。何処への到達も望まない。生きている 事自体への価値は見出さず夢や希望も語らない。彼は一刹那の絶望的で さえある状況に身を置く事のみに己の生存の意味を見出し陶酔するディオ ニュソス的存在なのだ。 勝負時に人心を把握する姿や周囲を見る目に冷静で理性的な印象を受け るが、全てが極限状態へのプロローグだ。 大体が理性的な人間は生死を掛けた場に立つことを潔しとはしないであろう。 赤木しげるは生きる為の刺激としてあらゆるものを受け入れ、同時にあらゆ るものに馴染む事は無い。ただ己に対するより大きな負荷を追い求め続け、 その結果として生き続けた命をアルツハイマーという不条理が襲うが、赤木 はそれさえ「ついてない」と言いながらも淡々と受け入れる。 自分でなくなる命に馴染めるハズも無く、彼は自ら幕を降ろす。 彼ならツェラトゥストラの告知にも「悪くない・・・むしろ好ましい」とでも言うだ ろうか?。 そこには本物の強者の姿である「超人」の在り様を見てとれる様な気がする。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2009.09.30 01:28:04
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