テーマ:政治について(20208)
カテゴリ:政治
今回の北朝鮮ミサイル発射問題で日本のJ-ALERTが機能しなかった事への非難がある様だが、「何を今更」と思う。
自然災害への対応はともかく、国の危機管理としての軍事防衛面での機能不全は旧自民党政権時代に野党も国民も一緒になって構築してきてしまったものではないか。 憲法の縛りで日本独自での充分な情報取集能力を持てず、 米国頼みで得た情報も其れを独自に活用する術が無いのなら、国民にリアルタイムに知らせて招く混乱より、事後報告での誹りを受ける方がより国の責任性を免れると行政府が判断するのは当然の成り行きだ。 もっとも、我が国が「独自の判断」をする事は、米韓にも国際社会にも迷惑なのだろうから丁度良いのかもしれないが、せめて正確で充分な情報を収集出来る物理的能力は必要だ。 これでは実力行使云々以前に、国の危機管理としての予防的活動さえ満足に出来ない。 国防面に限らず、あらゆる場面で太平洋戦争後の日本に蔓延してきた無秩序なユニバーサリズムへの幻想が齎した弊害が、いまの急激なグローバリゼーションによって顕著化してきていると感じる。 まず、現在地球規模で進むグローバリズムの波はもう止め様が無く、我々も身を委ねる覚悟が必要だという共通認識は必要だろう。 当初はボーダーレスで進む相互経済によってナショナリズムが駆逐されると考えられていたが、実際にはグローバリズムが多国間での多干渉を生みナショナリズムを際立たせる側面を見せている。これは単に軍事力と経済力の優先性と規模を置き換えただけの帝国主義が現在に復活しているだけなのだと考えていい様に思う。 我が国が国際社会に於いて後手後手と廻るのは、この部分への意識の欠如によるものであり、その意識が何に起因するものであるのか考え、判断する事は急務なのだろう。 例えば「国連」という存在に、その実力以上のものを求め依拠して自らの意思決定を委ねてしまう我が国の傾向は、逆に「国連」という存在性を蔑にする無責任で当事者性を欠いた「不作為国家」だと考えるべきだ。 たまに「この国はユニバーサリズムとグローバリズムを混同視しているのでは?」という思いに駆られる。 まさか其れは無いだろうと・・・信じたい。 にほんブログ村 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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