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2013.03.05
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カテゴリ:思想
「犠牲者の氏名伝える意義は 朝日新聞「報道と人権委員会」」

自由報道の大切さは感じながらも、何か報道する側の傲慢さを感じさせる内容ですね。
一般論的な「使命」だの「死者の尊厳」だのと綺麗事を並べながら、やはり彼等の仕事である報道機関の利便的性が個人のプライバシーに優位である事が語られていると思う。

報道の自由が、報道機関の為でなく受け手の市民の為にあるのだという観点に立てば、報道の自由を担保する為に必要なのは個人を守る為のシステムと「社会の空気」なのだが、日本の歴史的風土が培ってきた社会には其れが無く、「戦後民主主義」と同様に「報道の自由」も欧米から持って来ただけの「借り物の価値観」である事を実感します。

具体的に言えば、個人が人権を侵害されたと感じたら簡易な手段で裁判を起こしたり、関係機関が即座に仲裁行動を起こす社会レジームの構築や、それに対する社会の共感が生まれる日本人そのものの認識の変容です。
日本の様な許可規定社会において、欧米の様な禁止規定社会と同様の「報道の自由」が機能する事が当然という社会認識は個人にとっては危険であり、少し意地の悪い言い方をすれば、日本のマスコミや報道機関は「少ないリスク」で「大きな利益」を挙げていると言ってもいいかもしれません。

今回のアルジェリアの事件に関して言えば、報道すべきはアルジェリアやアフリカが置かれている状況と日本(企業も)の関係性の詳細であり、被害者の人となりや個人的な情報の報道は、紙面や放送時間を埋め、話題性を引き延ばして報道機関の利益を最大化する為のものだと考えていいかもしれない。
それを「社会的共感を得る為」というのは姑息だと私は思う。
「報道は受け手の利益の為にある」なら、そんな事は自明なのではないだろうか・・・





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最終更新日  2013.03.05 14:24:45
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