テーマ:政治について(20206)
カテゴリ:思想
3月11日を中心にして大震災や原発事故に関しての多くの検証番組が放送された。その中で私にとって印象的だったのが、福島原発事故を扱った番組中で語られていた「失敗学」という言葉だった。
「事故を起こさない為の技術」と「事故が起きた場合の技術」の違いという、考えてみれば真にシンプルな差異に我々は余りにも無頓着であった。「安全神話」を批判する論説は山の様にあっても、その不合理性の源泉にロジカルに迫る話を聞いたことは無かった様な気がする。 「失敗学」は安全工学や経営学に関連した学問として確立されつつあるものらしい。そして、其処に立脚した考察では「日本には失敗や事故を扱う文化が無い。」という。 早速ウィキってみたのだが、「失敗学」の核となるのは 1) 原因究明 2) 失敗防止 3) 知識配布 だという。 「日本的な合議」による意思決定が「責任の所在」を曖昧にする事は盛んに言われている。そして結果が失敗に終わっても「お互い様」が優先されて、更に「責任の所在」を曖昧にしてしまう。つまり初っ端の「原因の究明」自体が非常に困難な社会であり、マトモな防止策や知識の共有に至る事が難しい社会状況だという事なのだろう。 「人間だから間違う事もある」等というレベルの、尤もらしい認識の共有が生み出す生半可な包摂性は、社会にとって弊害の方が大きい様に思う。 「人間は絶対に間違える」という、自分達の必謬性に厳しくコミットメントする覚悟こそが現在の我々に求められている事なのだろう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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