テーマ:徒然日記(23461)
カテゴリ:思想
「五体不満足」の乙武洋匡氏がレストランで入店拒否された問題で一騒ぎ起きている。関連記事
両者間では一件落着をみている様なのだが、個体間の感情の行き違いに留まらない、多面的に「法の下での平等」を考える時に看過してはいけない問題性を孕んでいると私には思える。 こうした情報が発信された時、受信側はあらゆるバイアスの掛かった反応をし始める。身障者である乙武氏が実は小さな店など吹き飛ばす程の発信力を保持している事から、彼の強権的な不作為の作為を疑い攻撃する者。社会に蔓延する身障者への無理解や差別を嘆きレストランを糾弾する者。どちらも乙武氏やレストラン側一方の断片的な発言や曖昧な状況を論拠にして無責任な論陣を張り、お互いが報復的な連鎖を繰り返す内に問題の本質からどんどん離れて行く。 此処での問題の本質は「身障者であろうがなかろうが、不自由な状況にある人間に手を差し伸べる精神性はあって然るべきだが、その包摂的精神は無制限に必要とされるのだろうか?」という事だろう。だとしたら、その程度を定量的に決定出来る個人など何処にも居ない事の理解が共有されているべきだ。そうでなければ何を発言しようが偽善的に関与する「言いたがりの人間達」としか私には見受けられない。 乙武氏とレストラン双方が軽率な行動を反省しているが、周囲で騒いでいる人間も自分のバイアスを自覚する必要があると思う。自分のバイアスの自覚と修正はネット社会での情報リテラシーには必要欠くべからざるものだという思いが私は日に日に強くなって来ている。 今後の為にも有耶無耶にせずに「身障者として苦痛を与えられた乙武氏」と「個人攻撃で信用と経済的毀損を受けたレストラン」双方が民事訴訟を起こし、正確な事実確認をした上で今回の様なケースの「判例」を作っておくべきでないかと私は思う。 「日本で其処までの事は・・・」と思うかもしれないが、それ程に暴露された個人情報は脆弱であり、それ程に障害者をとりまく社会状況は厳しく、それ程に判断基準をもたない健常者の戸惑いは大きい。 「法の下での平等」とは、そうした事を考える事であるのだと私は思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.05.20 01:43:58
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