テーマ:政治について(20206)
カテゴリ:思想
前回の記事はオリンピックが決まった直後の流れで何となく書いたものなのですが、その後に「希望」とか「夢」といった単語が乱立する報道やネットの記事群を観ていて甚だ白け過ぎだったかな?と自問しておりました。
実は、私自身は正直「イスタンブールで決まるのだろう」と考えていたのです。 連日、福島第一原発での汚染水の報道が流れ、海外での此の問題への関心の高さを見聞きするにつけ「日本招致」が実現する可能性は低いだろうと考えていました。「アラブの春」を端緒とするトルコ国内の問題やシリアとの関係を考慮しても不利かな?と。 が、2020年の東京オリンピックは決まりました。 事が決まってしまえば、これは「日銀決定」以上の日本経済への「ビッグ・プッシュ」であり、その可能性への漠然とした実感が前回の記事の様な表現となりました。 ところが、決定に至る日本のプレゼンを観ていなかった私は今に至って正直驚いています。安倍首相のプレゼンでの「コントロールされている」という発言と、それ以上に其れを手放しで賞賛する日本の世論に私は大きな不安を覚えます。安倍首相の立場であのシーンでの発言としては他に言葉を持てないとは思いますし、実際「じゃ、どうすりゃ良かったんだ?」と切り替えされれば効果的な回答を私が持っている訳でも無いのですが・・・それで良いのでしょうか? 原発事故以来、私は一貫して「原発再稼働容認」を書いて来ています。ネットでも私生活でも「反原発・即時ゼロ」を主張する人々からはお叱りを受けますが、画餅を食わずに天文学的な費用と労力を伴う「原発処理」をして行く為に、必要な原発は再稼働するという矛盾を現実として受け入れるべきだと考えています。 現在は山本太郎氏の様な再稼働反対一辺倒の世論が日本社会を支配していると思われるのですが、其処にはテクニカルな経済性や効率を精神的に凌駕する理想主義的な倫理観や道徳観が介在していると考えています。 私が良く解らないのは、この多数派と呼べる「反原発」の人々が「現在の原発事故後の状況下」においての「コントロール発言」を賞賛しオリンピックを招致する事が、彼等の「道徳観」や「倫理観」と如何整合しているのだろうか?という事です。正確な内容は知らないのですが、スペインの王子がプレゼンで「オリンピックが来なければ国が破綻する」という類の発言をして反感や失望をかったという話を聞きました。技術的には浅はかですが、この王子の方が率直で道徳的ではなかろうか?と考えるのは私だけでしょうか? 前回の記事に書いた様に、オリンピックが決まれば原発事故問題への対応はより大きなものに成るのでしょうが、それは後付であり、しかも未知の技術への可能性のレベルで、現時点で解決への担保とされるものは何も無いのです。私は個人事業主であり、細々と投資もしているので現在のお祭り騒ぎを歓迎していますが、一見方向性の定まっている様で実は混沌として出鱈目な風潮には大きな不安を覚えます。こんな事では原発の廃止も存続も、どちらも決められ無いまま2020年を迎えそうです 。 安倍首相は国際社会に向けて公式に汚染水処理を含めた福島第一原発の安全性を宣言したに等しい。言葉にしただけでなく、その見返りとして国際社会が日本にオリンピックを承知した現実と責任を我々は再認識しなければいけないのでしょう。 エンジンにやっと火を入れた安倍首相を、「trust me」と言って憚らなかった「類稀なる大馬鹿者」鳩山由紀夫の様にしてはいけないのだと思います。 目算は立たないままですが、やはり先ずあらゆる諸問題に最優先してありったけの「資金」「技術」「労力」を原発問題に投下、対応するしか打つ手はないのでしょう。オリンピックという希望が目標になった今、当面のテールリスクと成るのは不可避の自然災害と原発問題だけなのですから。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
最終更新日
2013.09.11 05:01:17
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