先生>「例えばこのクラスのみんなが『晴』という漢字を書いても線のとめかた払いかたは絶対に同じにはならない。それが個性です。みんなが『晴』と書く中で『雨』と書いて、僕はみんなと違うんだ!すごいろう!!と言ってもそれは個性とは認められません」
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この記事を読んで私も「上手いな!」と感じたんですが、如何にも違和感を感じたので先程まで徒然に考えておりました・・・
小学生という年齢、小学校という共同体、教師という立場からの此の時点での最善手であった事は間違い無いのだろうと私も考えます。ただ、これは「世間の常識」という枠組みを諭したという事であり「個性」とは無関係の話でもあるのだと思います。「個性」はシンプルに「違い」と翻訳されて使われる事が多いので致し方無いのかもしれません。
「個性」に定量的な線引きがあるという認識自体が「没個性」の社会を形成してしまう・・・
これを突き詰めてしまうと自己言及的に無限ループする話に成りかねないのですが、それに飽く事無く耐え続けるのが個性の尊重という事なのかもしれません。「個性」なんてマトモに定義し説明できる様なものでなく、極めて個人差のあるパーソナルな「単なる許容範囲」というだけの事なのだろうと考えます。
昨今の日本でのダイバシティ論議が痛々しいのは、この定義し難い「個性」と「多様性」を混同して話す傾向にある為なんだろうな・・・