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カテゴリ:教会
教会の「婦人ランチョン」に出席しました。
婦人ランチョンとは、 昼食をいただきながら、聖書のお話を聞いたり 生の音楽(賛美)を楽しんだりする集会のことです。 メッセンジャーは、横浜の教会でご主人と共に牧師をしておられる S先生。はつらつとした感じの、爽やかな女性でした。 ご自分でも 「声と態度は大きいんです」 と言われたように、「元気そのもの」に見えるS先生も、 ある時ひどく落ち込んでいた時期があるそうです。 教会という場所は、本当にいろんな人がやってきます。 お金を無心にきたり、「これから自殺する!」という電話に 飛んでいったり、かと思えば、そういった人を助けようとして 「殺される!」と騒がれて、警察沙汰になったり・・・ 教会に住まわれる、 多くの牧師家庭が経験されることのようです。 S先生は当時、30代前半、小さなお子さん達を抱え、 ご主人がお留守で一人教会におられる時などは、 何か起きたらどうしよう、と大変な不安だったそうです。 Uooだったら、一日として、そんなお役目は耐えられないでしょう(^^; そのうちに、夜、眠れなくなり、 自分はダメだと思い込むようになり、 病院にこそ行かなかったけれど、鬱状態の日々が始まりました。 自分の「罪」。 何か犯罪を犯して捕まったというものではなくても、 かつて自分を傷つけた人を許せない心を持っていたり、 自分が傷つけた人に対して罪責感を負っていたり、 誰もが経験する「重荷」です。 S先生は、牧師ですから当然クリスチャンなのですが、 クリスチャンであるからこそ、 真面目であるからこそ、 そんな自分を赦せなかったのかもしれません。 苦しみの中、ある時、子供のバイブルキャンプで S先生は十字架の話を聞かれました。 「神さま」と「人間」は、 人間の罪のために、その間には大きな隔たりがある。 その仲介者として、「イエス」の十字架があり、 その十字架によって、初めて神さまと人間は和解出来たのだと。 S先生に、ある映像が浮かびました。 十字架にかかったイエス様が、 自分と、かつて自分が傷つけた人々、 また、自分を傷つけた人々の間に立っています。 イエス様は、その人たちの方に向かって言われました。 「私がSのために十字架で血を流した。 それに免じてSを赦してやってほしい」 次にイエス様はS先生の方を向いて、 「私がこの人たちのために十字架で血を流した。 この人たちを赦してやってほしい」 S先生はそこでハッとされたのです。 自分の罪は、既にイエスの十字架によって清められていた。 もちろん、自分が悪を働いた相手に対して 謝罪をするということは必要だし、 出来得る限りS先生もそれをされてきたのですが、 神さまの赦しを本当の意味で受け取っていなかったことに 気付かれたのです。 ある時、S先生は、また夢を見ました。 自分が何かヤリのようなもので、誰かを突き刺す夢です。 恐ろしさに目が覚め、どうしてこんな夢を、といぶかったそうです。 突き刺した相手は誰か。それはなんとイエス様でした。 その時、 聖書に書いてある、あるローマ兵のことを思い出したそうです。 十字架にかかり、息絶えたイエスのわき腹を、 一人のローマ兵が棒で突き刺しました。 その時、吹き出た血しぶきは、そのローマ兵に一番多く 振りかかったはず。罪を清めるイエスの血潮が・・・ 「私の勝手な解釈ですが」とS先生は断られてから、 「自分をヤリで突き刺すようなあなたであっても、愛しているよ。 私の血潮であなたを清めてあげよう、とおっしゃる方なのです」 Uooはその時、ずっと以前に読んだ、 遠藤周作の「沈黙」のラストを思い出しました。 江戸時代、布教活動をしてきた宣教師が 踏絵をさせられるシーン。 踏絵のイエスが、彼に語られます。 「わたしはお前達に踏みつけられるために存在しているのだ」 (うろ覚えですが) 「赦されない罪はない」 「癒されない傷もない」 イエスの十字架によって!アーメン! 神様と私たちの関係は、親子関係に似ています。 子供が何か悪さをして、母親に謝ります。 「おかあさん、ごめんなさい」 「いいんだよ。赦してあげる。今度から気をつけようね」 次の日の朝も、また子供が 「おかあさん、ごめんなさい」 「いいんだよ、もう気にしないで」 また次の日も、「おかあさん、ごめんなさい」 と子供が言ったとしたら・・・ 赦してあげる、との母親の言葉を子供は 信じていないのです。 それはどんなに、お母さんを悲しませることでしょうか。 神様は、 イエス様の完全な救い、「十字架」によって 私たちのあらゆる罪を完全に救われました。 それを私たちは、ただ信じるだけでいい。 全ての罪は赦されている! ならば、その大いなる救い、神の愛にただ感謝して 日々を歩めば良いだけなのです! ハレルヤ! ***聖書の言葉*** 私たちが滅びうせなかったのは、主の恵みによる 主のあわれみは尽きないからだ それは朝ごとに新しい 「あなたの真実は力強い 主こそ、私の受ける分です」と私のたましいは言う それゆえ、私は主を待ち望む 主はいつくしみ深い 主を待ち望む者、主を求めるたましいに 主の救いを黙って待つのは良い 人が、若い時に、くびきを負うのは良い それを負わされたなら、 ひとり黙ってすわっているがよい 口をちりにつけよ もしや希望があるかもしれない 自分を打つ者に頬を与え、十分そしりを受けよ 主は、いつまでも見放してはおられない たとい悩みを受けても 主は、その豊かな恵みによって あわれんでくださる 主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、 思っておられない 哀歌 3章22-33節 (記憶が不確かで、S先生のメッセージと内容が もしかして異なっていたら、ごめんなさい。 Uooはこのように先生のメッセージを受け取りました) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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