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カテゴリ:教会
無意識に、自分を苛めているワタシ。
誰かに何か言われたわけでもないのに、 「おまえなんか何の役にも立たない」と 周りの人に思われているかのように感じる。 何かをして、人が喜んでくれたり 褒めてくれたりしても、 「本当はそんな風に思ってないでしょ?」と 素直に受け取ることが出来ない。 礼拝に向かう車を走らせながら、 「これって、自分イジメだよな・・・」と つくづく思っていた。 今日の礼拝説教は 「十字架のイエスを見上げる」というタイトル。 私たちが元気がなくなる時とは? それは、自分が『役に立たない』『愛されていない』と 感じるとき。 それは、実際に愛されていないのではなく、 本当は愛されているのに、自分で心を閉ざしているということ。 聖書のどこだったか、パウロが 「私には自分のしていることがわからない。 したいことが出来ず、自分の憎むことを行っている」と告白している。 愛されていると信じたいのに、信じられない自分の心。 『したくないことをしてしまう』その原因は、 『私のうちにある罪』だと・・・ 十字架とは、最も忌まわしい処刑の方法。 当時、奴隷や身分の低い者に対してなされる刑だった。 そしてそれは、 本来、私たちがつけられるべきだった。 十字架は、主の大きな愛と、 私たちの永遠の苦しみからの解放を現しているのだ。 自分をついイジメそうになったら、 十字架を見上げよう。 ***聖書の言葉*** 信仰の創始者であり、完成者であるイエスから 目を離さないでいなさい。 イエスはご自分の前に置かれた喜びのゆえに、 はずかしめをものともせずに十字架を忍び、 神の御座の右に着座されました。 あなたがたは、罪人たちのこのような反抗を 忍ばれた方のことを考えなさい。 それは、あなたがたの心が元気を失い、 疲れ果ててしまわないためです。 ヘブル人への手紙 12章2~3節 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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