それはそれ、これはこれ
先日ある人のブログを読んで、なんか違うよな~、って感じました。いや、その根本が何だか良く分からなかったので、何も書きこまず、イイネ!も押さなかったんですけど。まあ、大雑把にいっちゃえば、貴方が今寒さにふるえずご飯にも困らずにいるなら、それは誰かに愛されている証拠なので、それを感じましょう、つーよーな、内容でした。意訳し過ぎ??一見良いお話なので、感動されている人も多かったと覚えてます。でもさ。私はこれ、最初っからメッチャ違和感バリバリで。いや、それ、なんか違うから、って思ってしまった。そしてそれがうまく言えなかったので、寝かせてました。で繋がったので、話題にしてみた。ぶっちゃけ、それはそれ、これはこれ。だと思ったのですね。確かに人は誰かの助けなしに、誰かの力なしに生きていけない。だから色々とモノがあるならば、それは誰かの愛によって存在している。それは反対もしないし、反論もしないし、もっともだと思う。私たちは誰かの想いを借りて、生きているものだから。でもさ、それがあるからと言って、そう簡単に満たされるものじゃないんだよね、人って。傲慢でも無知でも何でもなく、ただの事実として。人は人に愛されている、と実感することで満たされる生き物だから。例えモノが沢山あふれていたとして、でも周りに誰も居なかったら、自分は愛されてないって感じちゃうのは当たり前だし。誰かと一緒にいて欲しいと願うのは、ごく当たり前のことだと思うんですよね。強いて言うならば、モノは際限なく与えられたとしても、親と直接話をしないとか、殆ど仕事で帰って来ないとかで育った子供は、メンタルネグレスト(精神的育児放棄)を受けている、と言えるんですが、それと同じような感じだと言える。ちなみにメンタルネグレストを受けて育った子供は大人になっても、普通の人間関係を築くのが難しいんです。人との関わり合いを、親から教えてもらってないから。大昔はそれこそ地域ぐるみで子供を育てていたから、誰かが構っていたので、そんなことは起きてなかったかもしれないが、今の核家族の状況だと、子供が一人で放り出されているような感じになっていたりする。そんな感じの淋しさを抱えている人は、実は少なくないんじゃないかな、って思うんですよね。実際誰とも口を利かずに、は難しいかもしれないけど雑談とかしないでいると、やっぱり自分は愛されてないとか、好かれてないとか思ってしまうことはあると思うし、そう思う事を無理に何かの代替えを持って、辞めるってことは、しなくて良いと思うんですよね。何かが満たされているから、不満を言っちゃいけない、だとか、誰かから見れば満たされているから、文句を言っちゃいけないとか、そーゆーのも違うと思う。星型に開いた穴に、丸いボールをどれだけ入れても、隙間が埋まることが無いのと同じような感じだと思うのです。でも何かがあるから文句を言っちゃいけない、と言う人は、半分嫉妬と妬みで、誰かが完全に満たされるのを不公平だと思っていて、そうならないように呪いをかけているようにも見えるんだよね、今の私には。ハッキリ言って自分がそーしているからと言って、他人に強要するのは違うと思う。自分からそこから抜け出してくれ、と思います、はい。何か別のものが満たされていても、満たされてないものがある、ってのは言っていいと思う。そしてその満たされてないそのものが、何なのかを自分で知って満たされるようにすることが大事なんじゃないかな。それこそ幼い頃の辛い思いを、誰かに共感してもらえたり、認められたり、そう言う些細に見えることこそが、今の欠乏感や愛を受け取れない原因だったりするし、それをちゃんと埋めることが大事だと思うのです。だからね。例え何かが満たされていたとしても、満たされてないものがあれば、それを取りに行ったり得ようとすることも大事かな、と思います。もちろん「足るを知る」ことも大事だけど、その前に全然満たされてないものを、十分にたっぷりなみなみと満たすことも大事だと思うのですよ。だから足りないものを欲しいと思うことは大事だし、遠慮する事なんて無いのです。ただし、それが何かの代替え品の場合、どんなにあっても本当に満たされることはないからね。そうなったら本当は何が欲しいのかを、自分でどんどん深く潜って見に行くことが必要になって行くと思うのです。そこんところだけは、間違えないようにしないとね、自分が辛くなりますから。辛くなったら何か間違えてますから。以上リラやら何やらの寄せ集めを自分なりに発酵?させたもの、でしたw