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語りと筆しごと~書家香玉のうずまき帖

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2017年11月23日
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テーマ:ニュース(99880)
テレビ報道記者として働いていた20代半ば。遊軍として独自の視点から特集とする企画を求められていた私は、限られた術を手繰り寄せながら、自分には何ができるのだろうと漠然と新聞を広げていることがよくあった。


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テレビは新聞の後追い、ではいけない。
新聞をびっくりさせるような独自ネタをつかめ、やれスクープをとハッパをかけられていたのは、所謂、警察や司法、行政の記者クラブに所属できた社員記者。今は契約も所属できることになったらしいが、当時、報道部専属の契約記者だった私にはあまり関係のないことで、突発の事件事故、災害などで応援に駆り出されることはあっても、普段はとにかく自分の引き出しを多くすること、自分ならではの視点で知力や人脈を広げることが先決だと勝手に解釈し、遊軍らしく、ゆうゆうと新聞を広げて仕事をしているスタイルをきめこんでいた。

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自分ならではの視点でいえば、悪く言われる筑豊でないニュースを拾うこと、であった。
私が生まれ育った筑豊というエリアは福岡県の中でも何かと暴力事件等が多く、物騒で荒々しい、怖いところであるらしい。
地元を出て就職して初めて、出身地を言うだけで、まずそのようなイメージで語られる驚きを知った。

そんな中で出会った筑豊文庫という文字、鞍手町に暮らしたという上野英信という作家の名前。

救いを求めるように毎日広げていた新聞各紙の、連載記事や特集で筑豊発の文化的な香りを放つそれらをどんどんコピーして切り抜き、ノートに貼り付けていった。今はなんでも即座にネット検索して情報を得られる時代だが、当時はまだ、テレビ局が独自に契約していた過去の新聞記事のアーカイブデータを特別な操作で引き出していくのが主流で、過去の記事は、写真などはない文字データだけをプリントアウトできる仕組みだったのでそれも活用し、独自の筑豊スクラップ帖は膨らみを増した。

記事によれば、筑豊文庫という場所は、上野英信という作家の活動拠点であり、全国から様々な文化人が集い、交流を深めた情報発信基地であったらしい。それをどう取材し、今に伝えるのかまでは考えが及ばなかった。ただただ、そのような場所が筑豊にあったことが嬉しかっただけだ。

ちょうどその頃、大牟田の三池炭鉱が閉山を迎えた。それに関連し、石炭六法が期限切れとなり、旧産炭地からの脱却を目指す筑豊、、のような特集を担当することになった。
四谷の竪坑が爆破によって崩れ去る様子を先輩記者が現場から中継する様を固唾を飲んで見つめた。

機を同じくして、上野英信の没後10年、献身的に夫を支えた妻の晴子氏が遺した手記が出版された。
「キジバトの記」
庭にやって来る仲良しのキジバト夫婦に想いを馳せながら、記録作家の夫を献身的に支え続けた妻。本によって新たに浮かび上がった上野英信像は、その人柄や仕事を深く知る人から大変な評判となった。
職場の中にも記者時代、筑豊文庫に通い詰めた上司がおり、この一冊をもとに長編ドキュメンタリー番組をとの命が下った。

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番組ラストシーンで紹介した、上野英信の絶筆


独自のスクラップ帖を他に見せたわけではないが、筑豊出身の私に白羽の矢が立ち、かくして私は私なりの目線で、筑豊に、日本を根底から変革するエネルギーのルツボであれ、火床であれ、と全身全霊のエールを送った作家、上野英信の存在を仰ぎ見て、その仕事や交流、人の繋がりなどを映像や言葉としてまとめるという、大変誇らしく光栄な機会を得たのである。

当時、上野英信氏が亡くなって10年。
軍幹部として満州の建国大学に行き、その後京大へと進み、エリートコースまっしぐらだった英信が、すべてを捨てて何故、筑豊に向かったのか。
炭鉱労働者から得難い友と守られ、彼らに代わって人間の尊厳を訴える記録文学に徹底して身を捧げたその仕事や交流を、私は20代の浅い知識と好奇心を頼りに必死に追った。
1番力になってくれたのは、たった1人のご子息、長男の朱さんだった。
上野英信に最も影響を受け、その生き様を継いだとされる同じ記録作家の川原一之氏や、筑豊を初めての被写体として写真家人生をスタートさせた本橋成一氏をはじめ、番組取材がなければとても出会うことの出来なかった方々と、あれから20年経った今でも、親しくさせていただいている。

僕たちは、筑豊文庫が蒔いた種。あなたもですよ。
それぞれの場所で花を咲かせ実りましょう。
との言葉をくれたのは、現在、JICAとして国際貢献に奮闘する川原さん。

人間として、どうあるべきか
どの視点から、どういうものの見方をするのか
それを上野先生に教えられたと語った本橋さん。

朱さんにいたっては、今でも日々頻繁にさまざまな話題で導きをもらい、問答を続けている。

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没後30年の展示と、朱さんが30回忌の法要としてやむなしでトークイベントの依頼を引き受けたと言われたその内容は、想像以上に素晴らしく感動的だった。

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戦時をくぐり抜け、広島で被爆し地獄を味わい、その闇から抜け出せずに筑豊の真の闇に身を置き、人との出会いに癒され、たった1人の子供をもうけた上野英信氏が、朱さんの誕生の日に描いた絵。残した言葉をあらためて目の前にできた30年展。

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勝った!と思った。暗闇に歓喜の赤い旗を打ち立てるように、勝利の証として、朱さんは生まれたのだった。
上野英信の息子と言われる重圧から逃れようとしながらも、結局のところは、両親が大切にした方々との縁を丁寧に請け負い、記録し、語り始めた朱さん。
私は朱さんの選ばれる言葉や、穏やかな中にユーモアや力強さを織り交ぜ、聴衆を笑顔にする語り口が大好きだ。
今回のトークイベントは、特にその輝きが最高潮だったように感じた。

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赤煉瓦館に掲げられた上野英信の文字と共に、こちらも番組制作がご縁でお目にかかった若松の山福印刷の奥様、みどりさんと勝利のピース。
朱さんと同じ熱い朱色を連想する、朱実さんは絵本作家、木版画家として活躍中。素敵な作風で尊敬するお姉さまだ。

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筑豊文庫の種として、私も枯れることなく頑張れるとこまで。初心を思い出すことができた20年目であった。







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最終更新日  2017年11月23日 15時46分51秒
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