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カテゴリ:小説をめぐる冒険
坂口安吾(1906~55)
新潟生まれ。代表作に『白痴』 『堕落論』。その他、『夜長姫と耳男』 『不良少年とキリスト』など。 部屋が汚いことでも有名な人。 ―――さて、いつのことでもいいんですけれども、 この本のこの一節にはガーンとやられてしまったな、というものはありますか? 祝祭男】 ええ、ありますね。 ただ、なぜガーンとやられたのか、そのガーンが一体何だったのか、 ということについては自分のことなのにもう一つ判らないままなんですけれども。 これは紛れもないガーンであったと、そういうものはあります。 今でもこれはガーンだったな、と感じますし、 そのガーンはまだガーンのままですね。 ―――そうとうガーンだったんですね(笑) 祝祭男】 ええ、ガーンでしたね(笑) で、それは坂口安吾が26歳の時に書いた『FARCEに就いて』という評論のような、エッセイめいた文章なんですね。 『堕落論』(新潮文庫)の冒頭に収録されています。 初めて読んだのは確か高校生のときだったんですけれども、 そのときはそれほどガーンではなかった。 それがまあ何度も読返すうちにどんどんガーン度が上がっていって、 ついには本当にガーンなわけです。 ―――自分で言い出しておいてアレですけども、 そのガーンというのはどういうことなんでしょうね。 祝祭男】 つまり比喩でも何でもなくて、 本当に金槌か何かで頭をガツーンとぶっ叩かれた衝撃を感じる訳なんですね。 まあ痛かあないんですけれども。激震する。 そういえば私が中央公論の文学全集で読んだ『罪と罰』は、ラスコーリニコフが高利貸しの婆の脳天に斧みたいなものを振り下ろす瞬間が、 凄惨な劇画調の挿絵で描いてあってびっくりしたんですけれども、 頭は割れないけどあんな感じ(笑)。 こんなことを言ってのけることができるのか! こんな風に世界を受け取ろうとすることができるのか! ウワーすごいぜ、すごいぜ、っていう感じでしょうか。 ―――具体的にはどんなことが書いてあるんですか。 祝祭男】 ええ、こういう一節があります。 『ファルスとは、人間の全てを、全的に、一つ残さず肯定しようとするものである。凡そ人間の現実に関する限りは、空想であれ、夢であれ、死であれ、矛盾であれ、トンチンカンであれ、ムニャムニャであれ、何から何まで肯定しようとするものである。ファルスとは、否定をも肯定し、肯定をも肯定し、さらに又肯定し、結局人間に関する限りの全てを永遠に永劫に永久に肯定肯定肯定して止むまいとするものである。諦めを肯定し、溜息を肯定し、何言ってやんでいを肯定し、と言ったようなもんだよを肯定し――つまり全的に人間存在を肯定しようとすることは、結局、途方もない矛盾の玉を、グイとばかりに呑みほすことになるのだが、しかし決して矛盾を解決することにはならない、人間ありのままの混沌を永遠に肯定しつづけて止まないところの根気の程を、呆れ果てたる根気の程を、白熱し、一人熱狂して持ち続けるだけのことである。』 と、こんな風になっているわけです。 引用しているだけでも、狂おしい熱の帯び具合が伝わって来るんですけれども。 でも、一体これはどういうことなのか? 他の部分では、『ファルス』とは『笑劇』であったり、 『乱痴気騒ぎに終始するところの文学』とか『道化』あるいは、 西鶴の作品に見られるような『滑稽文学』といったものが類語として使われているようですけれども、その辺はよく知らないので、 また何とも言いようがありません。 ―――つまり、もうなんでもありだ、ということですかね? 祝祭男】 どうなんでしょうね。 『一歩踏み出せばここから「意味無し」になる』ところの『最頂点』とか、 それは『文学の「精神」の問題』という風になっているので、 はっきり言ってよく判りません。 ただまあその『白熱』とか『熱狂』というのが割と核になっていて、 あとはまあ、巨大な『肯定男』みたいな奴が人生と「格闘」しているというか、 「踊って」いるというか、 そういうようなイメージにしかならないですね。 ―――すごいのは言葉だけ、ってことなのかな? その全体はいまいち理解できないし。 祝祭男】 個人的には、安吾のこの文章は強烈なエネルギーを持っていて、 読む人を丸飲みにしてしまうところがある。 つまり、人生的にスッと体の底に落ちてしまうところがある。 で、私自身ずっとそうだったと思うんですけれども、 そういう文学としてのメッセージを人生論的に理解する、 というのは危険だな、と思っているんですね。 「人生が判る」、というのと「文学が判る」というのは全然違うことなんだ、 と思います。あるいは、これはどっちだって別に関係ないじゃない、 どっちも判んねえよ、という問題でもあるので、 それについても今のところ上手く言えません。 ただ、文学の力は私の人生とかを揺さぶることもある。 ―――祝祭男さん自体、安吾の言葉をまだ消化しきれていないみたいですね。 祝祭男】 ええ、そうなんですね。 それが、ガーンが未だガーンである所以なんですね(笑)。 ただ、文学にしろ人生にしろ、変な言葉であって、 こんな風に一度に何度も使っちゃうと判らなくなります。 それに「判った」とか「理解できた」とか、この場合言えないんじゃないか、 言っちゃまずいんじゃないかって気もしています。 うん、今のところそんな感じです。 ―――ふうん。まあ、現在進行形、というところでしょうか。 じゃ、今日はこの辺で。 それではまた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
Mar 21, 2005 04:14:15 AM
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