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祝祭男の恋人

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カテゴリ:小説をめぐる冒険

  

 その夏に、僕の住む猫ヶ洞第三高層集合住宅の新しい管理人として派遣されてきた男は、まだ五十代半ばだという話にしては、あまりにも物静かで年寄り臭く、そして僕に、年齢とのギャップだけではない、奇妙なもどかしさを植え付けた。彼の雰囲気には、何か決定的な食い違いがあった。それを察知したのはどうやら僕だけではなかった。でも、僕には初め、それが何なのか見当もつかなかった。軽い胸騒ぎを覚えただけだった。

 それまで管理人をしていた黒柳という姓の夫婦は、この町の更に郊外へ、砂埃が消えるように引っ越していった。それは名前も聞いたことのない町だった。雨の少ない春のことだ。夫婦はよく似た顔をしていた。ほとんど同じ顔をして、その中の僅かな違いが二人を男と女に隔てていた。時折僕は彼らのことを異様に感じた。一人息子が二世帯住宅を建ててくれた、と夫婦は笑いながら話した。笑うとき素早く歯を隠す仕草がどういうわけか気になった。彼らが消えて僕は少しほっとした。


 近所では並ぶものがないほど巨大であったこの高層住宅は、N市の外れに位置し、広大な霊園の横たわるなだらかな丘の中腹に聳えていた。分厚い一枚岩と聳えるこの団地より向こうに拡がる世界のことなど、僕にはほとんど興味がなかった。実際閑散としたすき間だらけの町と道路が延びているだけだった。僕の頭の中では、団地の裏側の世界は、そのずっと先に茫漠と広がる空港の敷地とほとんど境界線を持たずに地続きだった。要するに、猫ヶ洞第三高層集合住宅は、僕にとって、街の終わりを示す巨大な壁であった。そしてそう感じていたのは多分僕だけではなかったのだと思う。遠く離れた場所からでも、団地はすぐに目に留まった。そんなとき、僕は少し安堵した。母の百恵も、そう言えばそんなことを思うことがある、と言っていた。でも、同時にそれはどこかしら異様な光景だった。口にこそ出しはしないが、あんなおかしな長方形の中に自分は暮らしている、と思うことがあった。どこからも目に付くということは、四方八方から晒し者にされているということでもある。

 しかし団地が街の終わりを示す壁だ、と僕が思うよりもずっと前から、ほとんどの人にとってそれは一つの通過点でしかなかったようだった。市の中心部から、どんどん人口は外へ浸透していった。気が付いたときにはもう、なし崩しのようにして、壁は役割を終えていたのだ。


 というわけで、僕がそう感じ始めた頃、初夏の匂い立つ新芽のように、その噂は広まった。住人達は当たり障りのない毎日のお喋りの中にその噂を忍び込ませた。そして動かしがたい現実の鉱脈にカチリと歯の先がぶつかると、不意に顔を見合わせて、倦怠の中で陰気に笑っているようだった。やがて、噂は一月もしないうちに現実のものになってしまった。
 一体どこに引っ越せと言うのかしら?母、そう言った。
 猫ヶ洞第三高層住宅、来年3月に解体工事、着工。
 

 僕たち別所家の三人は、この団地が取り壊されてしまったら、他に行く当てがなかった。でも、口では文句を垂れていても、別段オロオロするようなこともなかった。母はいつものように近所のスーパーで餃子の実演販売をしていたし、姉の美希も、同じように仕事のミスを繰り返す日々を続けていた。見た目は何もかも今まで通りだった。僕だけが、宙ぶらりんの気持ちでいた。

 団地亡き跡には、新しい住宅街の構想が立てられているらしかった。数年後には地下鉄もここまで届くとしばらくしてから耳にした。でもどっちにしろ、もう他人事だった。いっそのこと全部墓にしてしまえばいいのに、と僕は思った。そのあと忍び足で、奇妙に浮き足立った気分がやって来たけれど、その落ち着かない雰囲気は、夏を持ち堪えられそうになく、ユーモアも通じない、運命を知り尽くしているただの退屈という奴だった。



                          つづく






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Last updated  Dec 11, 2005 04:33:42 AM
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