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カテゴリ:世界の記憶
今から六年程前、祖父とフランスを巡る旅をした。
宿をとったホテルで毎晩酒を酌み交わした。 日本から持ってきた塩昆布と煮干しをつまみながら、 あてどもないお喋りをした。 この数年で祖父はめっきり歳を取り、 歩くのもひどくゆっくりになったし、 涙もろくなった。 あの時何を話したのかはもう覚えていない。 夜が来るのを待ち侘びていたように、 いそいそとグラスを準備し、煮干しを拡げ、 部屋の明かりを一つだけ灯して、 唇を湿らせる。 新しい感動もなく、いかにも物憂い手つきで 夜をゆっくりと捲っていく。 そのうちぱっと火が灯るように 歓喜に満ちてきて、 過去の水脈を探り当てる。 私は二十歳になったばかりだったし、 祖父はまだ八十になっていなかった。 祖父は絵を描いていて、 私は詩を書いていた。 私は傷ついたばかりの傷の話をして、 祖父は遠い昔の古い傷の話をした。 あとはもう眠るだけだったし、 朝が来れば、街路を歩き回り、 一休みするカフェでビールを飲んだ。 歳の離れた兄弟みたいだと感じた。 そしてやがて夜がまたやって来て、 我々は示し合わせたように、 寡黙に酒を注ぎ合った。 そして花開くように、記憶が明滅して、 昨夜の一言半句が、錯綜した。 陽の歩いていった道をどかせば、 酒ばかり飲んでいた。 あんな楽しい酒宴を私は知らない。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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