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祝祭男の恋人

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 夕方、彼はガレージから車を出して街へと走らせる。

 マンションの敷地を出るときに、通りを歩いてくる父親の姿が見える。彼はゆっくりと車を近づけながら窓を開け、ちょっと出掛けてくるよ、と言う。父親は手首にきらきら光る数珠を巻き付けている。瞑想クラブの帰りなのだ。父親が頷くのを確かめると彼は窓を閉める。しかし角を一つ折れて住宅地の中を走りながら、もう一度、三分の一ほど窓を開ける。昼間の熱がゆっくり空に奪われていくのが分かる。五月の涼しい風が心地よく耳を撫でる。

 商店街を抜けて繁華街へ続く環状線ではなく、閑静な学園都市である山の手へ続く道を彼は選ぶ。くねくねと曲がりくねった旧県道に合わせてハンドルを切るたび、沿道の家並みが命ある生き物のようにフロントガラスを横切っていく。

 彼は少しずつ、この町に馴れていく。昨日は一昨日より、今日は昨日よりと、幾らか親しみを感じることが出来る。そういうことは誰かに説明されることじゃない。自分で分かるのだ。

 なだらかな坂を上っていくと、沿道にはちらほら街灯が灯り始めている。でも、空にはまだ晴天の名残がある。フロントガラスに切り取られた薄い水色の片隅が、ほんのりと赤く色付いている。多分そっちが西なのだ。

 街路樹をくぐる緩やかなカーブの左手に、国体の折に整備された競技場が見える。その壁には隈取り濃く緑の蔦が張り付いている。あまりに濃い緑のせいで、葉は濡れているように見える。通りの右手にはサッカー場がある。壁の向こうから歓声が聞こえる。入場ゲートの前で赤いユニフォームを着た子どもたちがボールの奪い合いをしている。

 そんな光景を横目に見ながら、彼は軽く舌打ちをする。そろりそろりとこの町のよそよそしさが風に紛れて入り込んでくる。一体俺はなにをしているんだ、と彼は思う。まったく、うっかりしていたな。次の瞬間、突然火がついたように荒々しく彼はダッシュボードを開け、中を探っている。乾ききって嘘みたいに軽いタオルに、二三本中身の残った煙草の箱が飛び出してくる。一本を口にくわえ、火をつけると埃っぽい紙の味がする。

 その後で、天井のサンシェイドに、数枚のカードが挟まっているのを彼は見つける。カードには解析学、遺伝学、物理学、応用生物学と印刷してある。裏には妹の名前が書き込まれている。それはまだ有効期限の切れていない大学の受講票だ。

 彼はそれをシャツの胸ポケットにしまうと、地下鉄工事が終わって広々としている通りに出る。そしてゆっくりと、でも確実にアクセルを踏み込んでいく。


 彼女は濃い化粧をしている。彼は買い物カートの収納スペースに立って女を見ている。キャベツ、シリアル、オレンジジュース、シジミ、アスパラガス。スーツを着た公務員風の男のかごの中身を女は俊敏にバーコードセンサーに照らしていく。伏し目の女は、遠くから見ると彼より年を取っているように見える。
彼はカートを押して、かごの中に青島ビールの一ダースパックを入れる。他に欲しいものはない。でも日用品の棚の前に来ると、歯ブラシが欲しくなる。レジスターの列に並ぶまでに、彼は歯ブラシと下着の一式、レポート用紙とボールペンをかごの中に入れている。


「あら、誰かさんと一緒に飲むのかしら?」と女は言う。挨拶は抜き。
「一人だよ、今のところは」と彼は答える。「――残念ながらね」
「それはそれは」
 彼はポケットから裸の千円札を三枚出す。財布はないんだ、と身振りで示そうとして、結局口で言うことになる。
「小銭、ジャラジャラ言うわよ」と女はクスクスと笑う。
「ジャラジャラ」

 ビニール袋をぶら下げながら、彼はスーパーを出る。そして、歯ブラシと下着を見ていた女の目を思い出す。すると、だんだんその時の目つきが気になって心から離れなくなる。スーパーの前につながれている犬の前まで彼はやって来る。犬は舌を垂らして彼を見ている。でも、すぐに興味をなくして横を向いてしまう。彼はポケットから三枚の硬貨を出して、自販機で煙草を買う。そしてもう一度スーパーの中に入り、棚の間をぐるぐると歩いていく。最初からやり直し。

 陳列棚には三種類の栓抜きがぶら下がっている。缶切りの歯が裏側についているもの、コルクの栓抜きと果物ナイフが中に収まっているもの、それから、ぽかんと一つだけ口を開けている小さい鉄製のもの。彼は一番安くて小さいものを選ぶ。そして栓抜きをぶらぶらさせながら、ソーダクラッカーの箱を手にとってレジスターの最後尾に付く。

 そのとき、前の客が彼女にもめ事をふっかける。割引額とか表示価格とかそういうものについて。それは彼女の責任じゃない。でもそれはちょっとしたことで彼女の接客態度にまで及んでしまう。そうして店長の男が出てくる。他の店員が列の客を空いたレジスターに誘導する。でも、彼は同じ列で待っている。
「これを忘れてた」と彼は手に持っていた品物をカウンターの上に置く。無理に微笑んでみせる。でも、彼女は曇りガラスのようなフラットな目をしている。そこにはまだ彼の姿が像を結んでいない。レジスターに表示された金額を彼は支払う。ようやく彼女は言う。まるで陸での生活を強いられた熱帯魚みたいに。彼女の身も心も、この場所にはそぐわないんだと訴えているように彼には見える。
「これはこれは」
 次第に彼女の目に生気が戻ってくる。「また会ったわね」
「ただいま」と彼は言う。「喉が渇いてしょうがないんだ」とビールと栓抜きを持ち上げる。
「同感」と彼女は答える。「馬鹿みたいに暑いのよ、ここって!」
 そして首筋をぱたぱたと手で仰ぐ。まるで次の言葉の準備を促すみたいに。
 だから、彼は言う。
「じゃ、一緒にどう?」
 女は彼の顎の辺りを見て軽く頷いている。
「何時に終わるの?」
「六時」と女は笑い顔を作って窓の外を見る。
「車だよ」
「じゃあ、待ってて」

 
 彼はまた店の外へ歩いていく。そこにはまださっきの犬がつながれている。昨日も一昨日もこうして犬がつながれていたことを彼は思い出す。そして、部屋のテレビの上に置いてきた財布の中身について考え始める。――そこには一枚の写真が入っている。角がすり切れ、汗で色が滲んでいる。十年間。その写真は十年間財布の中にしまい込まれている。ここ三年は取り出したこともない。でもそれはどういうわけかしっかりと彼の財布の中に収まっている。まるで一番居心地の良い場所から離れたくないんだというみたいに。彼は自分に言い聞かせるみたいにこう考える。――でもまぁ、それはただの写真に過ぎないわけだ。






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Last updated  Apr 10, 2005 03:49:27 PM
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