遠藤周作「沈黙」を読んで;その4
神は沈黙しているか?この世にどうして不条理があるか、何も悪いことをしていない人がどうして苦しまなくてはならないのか、その問いに対して神が沈黙している。だから失望し、信仰を失う。これがこの「沈黙」というタイトルの意味だろう。まずのーてんきな私は、不条理を自分が被ったばあい、「なぜ自分が」というふうには考えないのだな。なんでこの不条理が生じたか、ってことはちょっとは考えるけど、それが「なぜ自分のところに」というふうには考えない。どうしたらそれを回避できるか考えるだけでせいいっぱいだから。それと、「なぜ自分が」っていう発想だと、じゃあそれが他人にいけばいいのか、ということになってしまい、ちょっとまずいと思う。自分がいやなことは、たいてい他の人もいやでしょう?不条理が全部なくなればいいんだけど(不条理を減らす一つの方法は、各人が他人のことを思いやり、自分のなすべきことをきちんとすることだと思う)、そうじゃなかったら(どんなにみんなががんばっても、台風はなくならんだろう、台風の害を減らす工夫はできても)、その不条理をひきうけることのできる人がひきうけるしかない。イエスさまは、そうした。簡単じゃなかったはずだけど、そうした。アダムは自分のおかした罪を、自分のせいにできなくて、イブのせいにした。イブは、自分のせいにできなくて、へびのせいにした(*)。そのつけを、イエスさまはひきうけた。だから、私たちも、どうしても避けられない不条理は自分がひきうける。これがクリスチャンなんじゃないだろうか?(しかしこれを勘違いしてわがまま言ってくるひとには私は断固として「まず君が○○をしたまえ」と言います。こういう人を教育するのも平和の使者の仕事だんべw。)神は、沈黙していたのではない。いっしょに苦しんでいたんだよ、と、ちゃんとこの作品の最後のほうに、書いてある。*ちょっと横道にそれますが、現在の日本語ミサでは(私が日本をはなれてから変わってなければ)、最初のほうで、「全能の神と、兄弟のみなさんに告白します。私は、思い、ことば、行い、怠りによって、たびたび罪をおかしました。」と全員で言うところがあります。これは実は、大事な言葉がぬけてます。英語では、"I confess to you almighty God, and to you my brothers and sisters, that I have sinned through my own fault(自分のせいで), in my thoughts, in my words, in what I have done, and what I have failed to do."と言います。先週、アメリカの司教会議で英語ミサおよび諸祈祷文の改訂が承認されました。これでもっとここの部分がはっきりしました。 "I have sinned greatly... through my fault, through my fault, through my most grievous fault."日本語ミサも、たしか大昔(私の生まれる前だけど、どこかで読んだ)はこんな感じだったはず。もうちょっとつづく