トルコ日記/イスタンブル偏 その3
さて、エジプシャン・バザールで念願の(大袈裟?(^^ゞ)サフラン様を買い、大満足したsaicuccio。その一行は“アラジンの世界”を垣間見るべくトプカピ宮殿へと向かった。このトプカピ宮殿は、トルコでは群を抜く、そしてヨーロッパでも有数の見学者数を誇る博物館である。年間見学者数は、約150万人と推定される。Σ(・ω・ノ)ノ! びっくりっ!トプカピ宮殿は、世界でも稀に見る巨大帝国-オスマン帝国の心臓部として約400年にわたりその役割を果たした。ここに住まいを構えた各スルタンが、それぞれ自分の必要性や趣味、あるいは権力を示すべく宮殿を美しく飾り立て、広げていったのである。周囲を全長5kmにも及ぶ城壁で固め、700,000平米メートルの敷地を有する。これはヴァチカンの2倍、モナコ王国の二分の一に相当する広さである。とにかくこの宮殿、広さもさることながら展示物も半端でなく、そしてこの宮殿を十分に説明するには、専門の研究家が本一冊を持っても足りないであろう。なのでsaicuccioはあえてここで無駄な努力はしない。そう。ただのお手上げ状態。┐(-。ー;)┌または、責任放棄ともいう。えへへ。(^^ゞだけどね、書きたいことは沢山あるのですよ!!!さすが泣く子も黙るオスマン帝国のサルタン!!!なんとも凄いお宝の山なのである。この宮殿には、各サルタンや皇子達が身に着けていた衣装が完璧に保存されているばかりでなく、『お宝探検団』などぶっ飛んでしまうお宝がザックザク! ここ掘れわんわん・ザックザクここ掘れわんわん・ザックザクその中でも目を引くのが・・・86カラットのダイヤここまで凄いと笑っちゃうのである。ははは。ぼ~くぼ~く笑っちゃいますこんなダイヤにぃ~♪ 周囲を49個のブリリアントカットのダイヤで囲まれた、この86カラットのダイヤモンドは別名『匙職人のダイヤモンド』と呼ばれている。何でも、貧しい匙職人がゴミだめの中に捨ててあった(!)このダイヤを見つけたのだそうだ。あはははははは・・・。(^○^) ゴミ箱に落ちてたんだってさ・・・。(-_-;)この宝物殿には、その他金銀・パール・プレゼントッ♪(←これを知っているあなたも相当に古いです。(^_^;))もビックリの、儀式用黄金の玉座、金に宝石をちりばめた皇子の揺り篭、預言者モハメッドの墓用に各6、666個のダイヤがはめ込まれた対の黄金の燭台、その他モロモロ、気が遠くなるほどの価値を持ったお宝が延々と続くのである。ここまで続くと飽きてくるのであった・・・。*宝物殿は写真撮影禁止でした。ごめんなさい。m(__)mもう1つ特筆すべきなのが『宗教遺産の間』である。ここは、イスラム教徒にとってアラーの神に次ぐ偉人、イスラム教の開祖・預言者モハメッドの遺品が置いてある。*豆知識コーナー名前は聞いているものの、モハメッドって一体誰?正式名はMuhammad。(571年頃~632年)アラビアのメッカ生まれ。40歳の頃アッラーの啓示を受けて、預言者として唯一神(アッラー)の信仰と偶像崇拝の排斥、人間の平等性を訴えた。632年に10万の信徒を従えてメッカ巡礼を行い、有名なアラフォート山上の説教の後、病没。1517年、エジプトを征服したヤウズ・スルタン・セリムがモハメッドに属する品々をイスタンブールに(勝手に (^_^;))持ち帰って来た。それ以来、オスマン帝国スルタンは、全イスラム世界の指導者を意味するカリフの称号をも持することになったのである。この宗教遺産の間の入り口には、一日中マイクを通してコーランを読み唱える人が座っている。もちろん写真撮影は厳禁であり、とても緊張した空気が流れていた。(気がした。)これらの遺品を前に手を広げてお祈りを捧げる人々が多数いた。遺品と言うのは、モハメッドの外套、剣、軍旗、弓矢から、歯、髭、足跡、自筆の手紙などである。あまり見ていて気持ちの良い物でもないのである。あ~、イスラム教徒の皆さん、ごめんなさい。m(__)mこのトプカピ宮殿にはこの他、常時宮殿に暮らす5000人分の食事を準備していた厨房や、スルタンたちが愛したと言われるチューリップの庭園、またある一角にはスルタンの嫡子達の割礼の儀式が行われた部屋などがある。それからハレム(禁じられた場所の意)の存在。(日本ではハーレムかな?)1666年の大火の為に全焼した木造にとって変わり、300もの部屋が迷路のように入り組む新しいハレムが出来上がった。現在公開されているのはほんの一部であり、ほとんどが16~18世紀に建設されている。このハレムは外の世界とは完全に遮断され、スルタンに最も近い親族と、(1)健康を管理する医者、(2)皇子達の教育に当たる学者達、(3)祝日に呼ばれる楽団に属する男性については、決められた日の決められた広間にのみ入る事が許可されていた。ご存知の方も多いと思うが、スルタンはイスラム教が許す4人の正式な妻と何人もの側室を従えていた。まったくもって、世の女性達の敵なのであった。ほんの小さな頃からハレムに連れてこられ、宮殿の掟に従ってゆくゆくはサルタンのおめがねに適うように厳しく躾けられた少女たちが殆んどだった。奴隷市場から買われて来た少女達もいれば、征服地から戦利品として無理やり連れて来られた少女達もいたし、献上品としてスルタンに贈られてきた少女達もいた。うっ、書いていてムカついてきた・・・。(――〆)このハレムで育ち、スルタンの目に留まって彼の子供を身ごもった女性達には個室が与えられた。しかし、気に入られなかった場合は(←このような場合が殆んどだったらしいが)、スルタンや家族の召使として一生を終えるか、あるいは政治家などと結婚させられたのである。オスマン帝国において、帝位は直系の父から長男に与えられるのではなく、現スルタン後は一族の中で最年長の男子に継がれるものであった。寵妃達にとっては、誰よりも早くスルタンの第一皇子を出産することが死活問題なのであった。全くご苦労なことである。ハレムにおける一番の権力者は皇太后であった。いわゆるスルタンの母である。6,700平米の敷地にある300の部屋、46のトイレ、8つの浴場、4つの小台所、2つのモスク、6つの倉庫、病院、プールなどの施設備えたハレムを統治していたのである。皇太后自身は、40の部屋と多数の召使を抱えていた。彼女はスルタンに次ぐ絶対的な権力を持ち、しばしば政治にも大きな影響力を持っていたとされる。もうひとつハレムで興味深いことが。スルタン・皇太后に次ぐナンバー3の地位は黒人であった。それはハレムに従事していた約40人の黒人宦官の長である黒人宦官長(クズラルアー)である。クズラルアーは嫡子の教育、育成の責任をも負っていた。これら40人の黒人宦官達は、故郷アフリカでの戦争で捕虜となったか奴隷市場で買い取られた者達であった。ハレム内での男の力の必要な仕事は彼らに任されていたのであるが、彼らはあくまでも奴隷の身分であり、また去勢されていたのである。 いったぁ~(>_