「心配」よりも「ともにいる」
人は親切で心配をしてくれるけれども、実は親切は思わぬ足枷というか、ありがた迷惑になるときがあるということがきょう、はじめてわかった。心配してくれることで、こちらが前進してゆく動きがとまってしまう。自分のことは自分でわかるし事実をありのままに述べるとき、ひとはそれが怖いから心配をする事実を述べることで、自分の方が不安になるからだ。それに、心配するという意識は、対象化して「見る・傍観する・意識」。という私もかつてはそうだった。ひとが倒れていて、それは 変化のときの異常であるのにひとは、そのひとの意識、しかも自分の過去のデータしかない「意識」で判断する。わたしは、心が不安で仕方がない。だから「心配していた」という。心配からは何も良い未来をうまない。関係がはぐくまれない。心配しているからといって本人に心配をしているといって一体、何が変わるのだろう。未来ある言葉なら必要。でも心配は無用。心配するよりも、ともにいる、ということが愛ある関係ではないかということがきょう、わかった。ともにいるとはそのひとの「いのち」と一緒にいるということで心通わせ 力になる関係はさらなる未来を創るとわかるたとえ 離れていても あえなくても・・・わからせてくださったかたに感謝を致します。