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詩人たちの島

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November 18, 2005
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カテゴリ:essay


老いた工場の裏の
死んだ箱の山を見た
洩れてくる泣き声と笑い声と
長靴の通った地面に、傷を浮かびあがらせる
だれの黙る故郷からの光だろう
旅人の私たちはそれを避けて夜の闇へと急ぐ


たぶん、近代の象徴主義的な詩の伝統の側面を受け継ぎながら、それを過激に「表象」的なものに転換させたのが福間健二かもしれない。「象徴」的な言語が感覚の「現前」を疑わないとしたら、「表象」の言語は信じるものなどなにもないというところからしか、瀬尾育生の言葉によれば、representationのreというところからしか生まれないのだから。

このre-は福間の詩を解く鍵でもある。ところが彼は逆に、新鮮な旅人のように(現実の彼はいつもそうであるのだが)詩の世界でも思われている。そうだろうか?

今回の第13回萩原朔太郎賞の委員たちの選考評(「新潮」11月号)を私は先日読んだのだが、(これは国立公民館の和田さんからファックスで送られたもの、和田さんありがとう)、候補作6編への言及がある。福間健二の「侵入し、通過してゆく」、倉田比羽子「世界の優しい無関心」も、そのなかに入っている。友人二人の詩集がこういう「大きな」賞の候補作になっていたということ、ぼくは知らなかった。この賞を受賞したのは、またしても荒川洋治の「心理」だった。

一読した選評の中で、面白かったのは、白石かずこの福間評だった。荒川の受賞への歓びの言葉にはじまり、倉田と福間の詩集に言及した次の言葉、
――というわけで、荒川洋治の「心理」という大きい作品が受賞したが、今回、最後まで争った倉田比羽子の、カミュの「異邦人」へのイントロも、また若い福間健二の世界、「侵入し、通過してゆく」このタイトルのスピードと軽さ、リズムも明日を予感させ、競馬でいうなら、走り出す前の馬の足ぶみのような、未来の快い予感を感じさせる。――

倉田さんの詩集は全然白石には読めていないのがよくわかるのだけど、福間の詩集をまともに読んでいない人は、ああこういう感じ?と言って、まさに「通過してゆく」ような書き方ではないか?白石さん、ご本人も本当に読んだのかと言いたくなる。言いたいのは、福間は「走り出す前の馬」のような詩は決して書いていないということだ。同じ選者の入沢康夫は次のように言う。
―― 問題は、中に挿入される固有名詞(人名・地名)が場合によって(いかにもとってつけたような感じの場合)読者を鼻白ませる点であるが、これは巻末の「ノート篇」と題された一種の自注パート全体についても似た感じがあった。――
 こういうのを「批評」と言うのなら、ずいぶんぼくたちは後退したのではないか。60年代から、はてしなく後退しているのが現代詩であるとすれば、その批評も全く同じだ。

しかし、おしなべて選者たちにあるのは、おかしなことだが「現代詩」の「わからなさ」への郷愁とでも呼ぶべきアナクロニズムである。そのことに一番醒めているのはやっぱり高橋源一郎である。ただし、倉田さんの詩集の分かりにくさを「個人」の分かりがたさに帰し、荒川の「心理」の分かりにくさを、荒川「自分のため」のみではない、高橋自身のためにも書かれていると理屈つけるのはぼくにはわからない。

ぼくが冒頭に掲げたのは、今進行中の福間・新井・筆者との連詩の、今日送られてきた福間の一連だが、この6行だけからでも、ぼくは白石の、もちろんそれ自体としては福間詩に対する好意的な批評なのだが、それに反論することができる。

福間のわかりにくさは、「固有名詞」の引用からくるのではもちろんない。また、その新しさは「若さ」などとは何の関係もない。白石は「未来の快い予感」という、そういうことを感じる人がいることに驚くのだが、「侵入…」という詩集は、本当は過去の「再びの・re-」の生き直しであるということをぼくは言いたいのである。そういう意味で、これは福間自身に訪れた「事件」のようなものでもあった。そういう感じをぼくは持っている。

福間の詩、ぼくはずいぶん彼の詩を読んできたが、いつでも感じるのは、その詩のなかに描かれる人間と人間の関係の「倫理性」である。

そういう古くさい主題に言及した選評はなかった。

一体、「傷」を浮かび上がらせる「故郷の光」などというフレーズをだれが発明できるか?

「死んだ故郷と癒えた傷」、そう見えるもののなかに潜り込み、いつでも「本当に、そうか」と問うのが福間の変わらぬモチーフである。

その先にある「夜の闇」に彼が言及しているのは、彼の「生き直し」のネガであるにすぎない。これはもちろん乱暴な言い方だが、ここまで白石の評言「未来の快い予感」が届いているのか、ここにこそ届くべきだと言いたいのである。つまり「語り直し」「書き直し」「生き直し」していることの全体にある「闇」をも手離さないことが、福間の倫理であり、そういう意味でこそ、未来や未知の「若さ」が常にその詩の中に宿るのではないか、明るさとして。





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Last updated  November 19, 2005 11:40:02 PM
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