カテゴリ:essay
昨晩は、飲みすぎてしまった。つまらないことで久しぶりに口論したりして、愚かさをまた発揮して、今日の休日はなにもせずに小さくなっていた。風邪もぶりかえして、自分の馬鹿さかげんを噛み締めながら、布団のなかで震えていた。
高野さんが、谷川の詩「がっこう」を批評しているのを読む。これ以上はうまく言えないけれど、この小学生のスピーカーを偽装した詩で谷川が批判しているのはなんだろうか?最後の行の「くやしいか がっこうよ くやしいか」というのは、いろんな思いが込められているのだろう。「ゆめをみている」生徒の夢を奪うような学校の全体としてのありようが批判されているのだろうが、そういう理屈よりも、「おれんじいろのほのおのしたが うれしそうにがっこうじゅうをなめまわす」というようなところに、この詩のすごさがあるのではないだろうか。この話者はその「おれんじいろのほのお」に加勢している、というよりその炎になりきって、「なめまわす」ように学校を燃やしているのである。夢を見ている生徒でもない、そこからも疎外されたものに話者を仮構できるところに、谷川の凄さがある。そのことがトータルな批判を可能にするのであろう。「無」の一転にしがみつき、それをどう反転させるか、そういう書き方である。 しかし、現実の「学校」はとうに焼尽している。 昨日、岡山の新見市にお住まいの田中俊輔さんが最初の詩集「イチゴの花」(Ryokushisya)を送ってくださった。風邪でつらかったので、悪いけれど布団のなかで寝ながら通読した。みんなすばらしい詩である。あとがきによると、田中さんは「三年という短い東京での銀行員生活で心を病みuターン。故郷の両親のもとに帰」られ、今は「両親と三人暮らしで」稲作をやっていると書いている。そのなかの短い一編をここに引用しておく。 稜線 見えかくれする稜線を 何度もノコギリで引く ここにたどりつくまで 何を見てきたというのか 枝打ちをする うっそうとした杉林を登る すると はるかな視界が開ける 遠い時空へ男を放つ 二十日で男はひとつの山を降りる 見上げれば人間の未来が 確かな森が そこにあるのだ 田中さんの健やかな日々と充実した詩作を祈ります。ありがとう。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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