カテゴリ:essay
禁煙ライブ一日目
思うところがあって、というような偉そうなことではなく、昨日の晩から禁煙に突入した。今日仕事があったが一本も喫煙しなかった、というより煙草とそれに関する道具類をすべて昨晩捨ててしまったのだ。自分の体のあちこちからニコチンが出てゆくような気がしている。もちろん一日だけでは無理だろう。むずがゆく、しんどいのだが、なるべく煙草のことは考えないようにしている。こうして書いたのは、公開することで退路を断とうという気持だが、30年余りの喫煙癖は「悪習」というにはあまりに忍びない。様々な思いと思い出が紫煙の周りにはからみついている。でも思い出さないことにしておく。 こうして机に向って、右手にある灰皿が消えた、キーボードを打ちながらも、すっていた煙と灰も消えた。「喪失」を嘆くには早すぎるが、嘆こう! ぼくより一足早く煙草をやめてしまった息子の名言がある。「禁煙は意志の問題ではなく、意識の問題である」というのだ。なるほど、これは実にスマートである。ぼくのような無学の武闘派にとっては、意志が一番大切だと思っていたが、そうでもない。しかし、意識の問題というのは、マルクス流の転倒であるということに今気づいた。まさにそうだ、ここにあるのは、禁煙という世界にあるのは、倫理的なもの、意思的なもの、要するに「人格」的なものではなくて、そう考えているから、ダメなんだ、そこを転倒させて、存在が意識を決定するという単純な「下部構造」の問題であるべきだということなのだろう。 そう思うことで「禁煙」の貧しい連帯がしっかりと開示されるような気がする。別に連帯などしなくともいいのだが、この弱さを一緒にいる女性Mにはじめて認めて欲しいと思い、昨晩「宣言」したところ、灰皿などをすべて撤去してくれたのである。こんなことをM がしてくれたのは初めてであった。いやはや!ぼくは何を言おうとしているのか? スワナクテモイイーと歌いながら、意識を拡充している。でもすべては「反抗」であると言ってもいい、つまり「慣習」の「脇役」であったものたち、「無意識」たちも含めて、そこにそのままでいさせ、そしてぼくはその「慣習」と明らかに縁を切ったのである。その傍で鳴っていた音楽たち、そして親密であった夜の長い時間たち、…。かれらはどこに行くのか? でもここで鳴っているのは同じ音楽、同じ時間、ぼくの「悪習」なしにも、実はそれらはよく響き、切ない時を刻んでいたのではないか。ここで一日を乗り越える、乗り越えよう! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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