カテゴリ:書評
井伏鱒二の『厄除け詩集』に「シンガポール所見」という詩がある。これは高野さんの教示によるものだが、そこに「中村屋のボース」が出てくるのである。井伏の年譜をひもとく余裕がないから、正確なことはわからないが、多分1942年か1943年のころに「徴用されてシンガポールに住む」ということになったのだと思う。ボースは「大東亜戦争」を日本が起こしたのを、インド独立の絶好の機会ととらえて、全精力をふりしぼって、植民地宗主国の英国打倒のための最後の運動を展開しようとする。中島の本によれば、彼がこの当時好んで書いた文句があって、それはI was a fighter. One fight more. The last and the best.(私はかつて闘士であった。もう一度闘おう。それは最後でかつ最善の闘いだ。)というものであったらしい。29歳のとき、日本に亡命して、中村屋の娘と結婚し、二人の子をもうけたかつてのテロリストは、このとき「還暦を4年後に控えた老人になっていた」(中島)。
真珠湾の奇襲と同時にマレー半島の対英戦も勝利を重ねた日本軍は、イギリス軍のなかのインド人兵士たちの投降を受け入れる。そのためにボースなどの「インド独立連盟」の力が必要になり、いや最初にボースなどの構想があり、インド人の英軍の将校たちとの事前の協議が実を結んだということだろう。最初はすべてがうまくいくように見えた。そういう時期に様々な国際会議をボースは企画して、ひろくアジアの連帯をよびかけ、イギリスからの独立を主唱した。シンガポールの陥落後に、1943年にボースはシンガポールに単身住んでいた、そこで井伏は彼を見たのだろう。 チャンドラ・ボースというまぎらわしい名前の独立運動の闘士がいて、彼はベルリンに亡命していたが、R.B.ボースは彼にインド独立連盟の代表を譲ることになる。両ボースは東京で会見して、1943年の7月4日、シンガポールでの「インド独立連盟の大会」に臨む。以下、中島の本から、 ― 会場には大勢のインド人が詰め掛けた。冒頭、R.B.ボースが「東京からすばらしいお土産を持ってきた」と言ってチャンドラ・ボースを紹介した。そして自らインド独立連盟の代表をチャンドラ・ボースに譲り渡すことを宣言した。するとチャンドラ・ボースは「バトンはいただきますが、ビハリ・ボースさんも最高顧問として手をかしてください」と要請し、会場は大歓声に包まれた。さらに翌日の7月5日には、インド国民軍の閲兵式が行われた。ここでチャンドラ・ボースは高らかに叫んだ。 「チャロー・ディッリー!」(デリーへ行こう!) すると、聴衆の間からも「チャロー・ディッリー!」の声が上がり、ついには会場全体での大合唱となった。 インド国民軍の新たな歴史が始まった。 ― 井伏が見たのはたぶんこのときの「中村屋のボース」であろう、ボース最後の勇姿である。 最後に『中村屋のボース』の著者、中島岳志のまとめを引用しておこう。彼の問題意識もここにある。 ― R.B.ボースは、1920年代には日本の支那保全論者を厳しく批判し、日本政府や玄洋社の「支那通」たちに対して厳しい見解を示した。また日本の朝鮮統治に対しても、立場上、公の場では明言することが出来なかったが、常に強い不満を抱いていた。インドの独立を目指す彼にとって、帝国主義的傾向を強める日本は、インドを苦しめるイギリスと同じ穴の狢であった。しかし1930年代に入ると満州事変を境に、R.B.ボースは日本の中国政策批判を完全にやめた。そして、日本によるアジアの解放というイデオロギーに、インド独立のための戦略的観点から同調して行った。 一方、彼はインドの宗教哲学者オーロビンド・ゴーシュの思想に大きな影響を受けており、究極的には国民国家体制を超えた世界のあり方を志向していた。そして、それを実現するため、東洋精神の発露としてのアジア主義を唱えた。R.B.ボースにとって「アジア」とは、単なる地理的空間ではなく、西洋的近代を超克するための思想的根拠であり、個々人の宗教的覚醒を伴う存在論そのものであった。彼は、物質主義に覆われた近代社会を打破し、再び世界を多一論的なアジアの精神主義によって包み込む必要があると主張し続けた。しかし、そのような理想は、「大東亜」戦争のイデオロギーに吸収され、それを補完する役割を果たした。結果的に、大日本帝国による植民地支配や「大東亜」戦争は、多くの人命を奪い、アジア諸国の尊厳を深く傷つけた。 R.B.ボースは、イギリスの植民地支配からインドを独立させアジア主義の理想を実現させるためには、日本という帝国主義国家の軍事力に依存せざるを得ないという逆説を主体的に引き受けた。「ハーディング爆殺未遂事件」などのテロ事件を主導してきたR.B.ボースは、目的と手段が乖離するというアイロニーを、避けて通ることのできない宿命と認識していた。彼はテロや戦争の限界を十分に理解したうえで、なおかつそのような手段を用いなければ植民地支配を打破することなどできないという信念を持っていた。 そして、この問題はR.B.ボースの生涯に限定された課題などではなかった。これは近代日本のアジア主義者や「近代の超克」論者がぶつかった大きな問題であり、広く近代アジアにおける思想家・活動家たちにも共通する難問であった。「近代を超克し東洋的精神を敷衍させるためには、近代的手法を用いて世界を席巻する西洋的近代を打破しなければならないというアポリア」こそが、20世紀前半のアジアの思想家たちにとっての最大の課題であり、苦悩だったのである。――「R.B.ボースという問題」p331.332 こういう観点から、中島はボースの一生を追ってきたのだが、ここからわが橋川文三や竹内好にも言及される。とても刺激的で面白い論点なのだが、今の私にはこれを追う余裕が無い。橋川も竹内も、まともに論じられることの無い思想家であり、これを真正面からとりあげる若い世代が存在することに、私自身強い興味と刺激を与えられた。橋川文三を読み直してみたいというのが私の思いである。また、橋川の伝記をだれか書いて欲しいものだ。(ただし、アジア主義という捉え方ばかりではない、もっと違う見方も必要なのではないか。うまくいえないがそういう感じも持った。) お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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