カテゴリ:movie
「モーターサイクル・ダイアリー」。チリの銅山(チユキカマタ)で、そこまで流れざるをえなくなるほどに追われ、食いつめたコミュニストの夫婦(面貌から彼らは明らかに先住民とわかる)と若いゲバラとその友人のアルベルトが一緒になる場面がある。この出会いは事実かフィクションか定かではないが、映画ではとても重要でゲバラにとっては決定的な出会いの一つとして描かれている。ゲバラというより、エルネストと呼んだほうが適切である。この映画はゲバラのことなど何も知らなくても十分に楽しめる映画である。アルベルトとエルネストというアルゼンチンの大学生の親友同士が一年余りをかけて彼らの大陸、南米をオンボロのオートバイで縦断する旅に出る、ロード・ムービーであり、二度とは帰らない青春をテーマにした映画でもある。
貧しさの極みを生きているけど、decentな生き方を感じさせるコミュニスト夫婦は、この学生ならではの贅沢な貧乏旅行中の二人に「旅の意味は?」という質問をする。「何のために旅をするの?」と。最高のトートロジーで若きエルネスト・ゲバラは応える、「旅をするために」。これこそが旅の意味である。この旅は「偉業」であるはずはない。でもハンセン病の患者たちとそれを看護するもっとも心優しき人間たちの間にさえ、大きな河が流れていて、居住区を画している。対岸の貧しく病んだ人々のもとに、「旅をするための」旅をしめくくる最後の夜にエルネストは誰も泳いだことのないその大きな河を泳ぎきり患者たちの歓呼で迎えられる、これは「革命」の純正な情熱の芽生えであり、だれも否定できない絶対的な理想主義の現れである、最初の確かな「偉業」。 このトートロジーと大河を泳ぎきる行為への情熱、それがゲバラを、いやたぶんそれが「革命」の意味を、いつもぼくらのそれとは異なるものにしている。南米大陸は一つであり、ロルカやネルーダの詩の言葉がそれを抑圧された人々の血のなかにまで沈潜することで証明している。 アンデスの涙を運んだ者よ 指をふみつぶされた 宝石細工師よ 自分の蒔いた種子のなかでふるえている農民よ 自分の粘土のなかに散らばってしまった陶工よ この新しい生のコップに 注いでくれ 大地に埋められた きみたちの古い苦しみを きみたちの血を 傷痕を (ネルーダ・第12の歌・より) この詩はネルーダの絶唱「マチュ・ピチュの頂き」の最後のパートの一部であるが、映画での二人の旅も、ここを訪れていた。幻の空中都市もそこで生活を営む人にとっては「地主」と「小作」の関係のなかにしかない、そういうことを若き学生たちは単純にしかし強く実感するのである。そこで会った農民の話を聴くことで。「旅をするために」すべての感受性を開放する、そういう率直さと強さがこの若者たちの素晴らしさである。そして、そこで得たものの悲惨さと貧しさから眼を背けない、眼を背けないことはイデオロギーに巻き込まれることではない、あなたの書くものは「まずい」とエルネストはお世話になった博士に包み隠さずに告げる、そのように自分で考えて自分で行動することにつながる何かである。 観念的なものに巻き込まれない。単線的であるが、その線は図太い、それをトートロジーとあえて呼んだのだが、その図太さは、自らが喘息に悩む病人であるという心細さと矛盾はしない。この医学生は医者を騙って旅行する場合もあるのだが、そこでも実に心優しいし、また恐ろしいほど率直でもある。次のようなエピソード、 貧しい瀕死の喘息の老女にエルネストは自分の喘息のための薬を惜しげもなく与える、彼女の手を握りながら、これで楽になりますよと語る、でも彼女は死ぬのだ。 二人の旅行が危機を迎える、バイクは故障し、食べ物も底をつく。そのときに大地主の家を見つけた。医者であるということを語ると、その地主は自分の具合を診てくれという。エルネストは彼の首の腫れ物をさわり、「腫瘍」だと断言する。そして自分には治せないという。アルベルトはそこまでは言わない。地主は彼らを追い出す。 この二つのエピソードの意味するものは単純でわかりやすい。でも、その通りなのだ、この映画は、「そのとおり」ということに、格別な意味を与えない。あるいはイデオロギーを与えない。でも、それが南米だとぼくは思うのだが、おかしいだろうか?それがゲバラという革命家を誕生させたものであるとも思う。 この映画は「シルヴィア」よりも面白かった。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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