カテゴリ:essay
阪神大震災から11年。今朝4時過ぎに起きて、そのことに気がついた。朝の5時46分に被災したのだった。神戸の街の惨状がありありと想起される。20歳のころからのなじみの街が、満身創痍になった日のことを忘れることはできない。そして11年経ったという。どういう変化、どういう回復が達成され、またはされなかったのか。いろんな検証がなされるだろうが、この年月の間にこの震災に直面した多くの高齢の人たちが亡くなった、その人たちの震災後の生の孤独をこそ、だれかが身をもって報告しなければならないことだと考える。11年間の復興という時間に見棄てられるかのように、それまでの隣人や共同体から切り離された震災後のさびしい「生」を強いられた人々の存在。こういう存在のことを忘れてはならない。
棄民同然の11年の孤独な老残の生のそばにIT長者たちや株券の錬金術師たち、「改革」の尻馬に乗って叫ぶ「児童」たちを並べること、その眼の眩むような「差」を見つめること、両方の「生」の質をしっかりととらえること、後者にそういうものがあるとしての話だが。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
January 17, 2006 05:06:52 AM
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