カテゴリ:essay
グレゴリー・ペックの「アラバマ物語」を衛星でやっていた。昔見たはずだが、忘れていた。自然に引き込まれてゆく。少しの違和感も無く、引き込まれてゆくのは、最近の自分に批判力のかけらも残っていないせいか。この映画がそれだけ素晴らしいのだと思う。
南部の人種差別の問題と子供たちの冒険の世界を並行させながら描くのだが、語り手の設定がこの映画のすべてを決定している。それはペック演ずる弁護士の勝気な娘スカウトの成人後のノスタルジックな語りとして設定されているのである。自分と兄との少年少女時代を男やもめとしての父親ペックがどのような愛情を持って見守ってくれたか、その父親が平等につくられたはずの人間のなかに亀裂をいれる差別というものといかに闘ったか、命をかけて自分たちを愛し、命をかけて黒人たちのために闘ったのである。その父親像を「偉大なる大根役者」ペックが静かに熱演する。無知な貧しい白人から、ニガーラバーと言われようが、娘のレイプをでっちあげた男から唾を顔に吐かれようが、彼は「でくのぼう」のごとく静かにしかし深く、あたかもあいての憎しみをすべて吸収するかのように南部の大地に突っ立つ。 憎悪が蔓延している。差別の表象と自由の表象とが混同されている。友愛と融和の祭典を表象しながら、反面では徹底してそれらの否定でもある(冬季)オリンピックも始まった。古いヨーロッパが見せた「自由」の傲慢なパフォーマンスに劣らず、これから始まる祭典の数々のパフォーマンスも何かを常に「排除」「差別」していると考えたがるのは、ぼくのひがみ根性か。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
[essay] カテゴリの最新記事
|
|