カテゴリ:書評
村上春樹は『意味がなければスイングはない』(2005年・文芸春秋刊)の一章をアメリカのロックンロール歌手ブルース・スプリングスティーンのために割いている。例によって、とても面白い。ブルース・スプリングスティーンのことを論じながら、同じワーキング・クラス出身の詩人・作家レイモンド・カーヴァーとの二人の本質的な共通点を挙げていくのだが、そこのところが私にはとても勉強になったし、興味深かった。次のような指摘、
――二人のあいだのもうひとつの刮目すべき共通点は、60年代のカウンター・カルチュアー、ヒッピー・ムーヴメント、反戦運動、そこから派生した擬似革命運動、そしてそれに続くポスト・モダニズムといった一連の「60年代シンドローム」に、彼らがともに巻き込まれなかったということだろう。早い話、当時の彼らには、そのようなムーヴメント関わっているような余裕がなかったのだ。彼らにとっての60年代後半は、まわりを見回す暇もないくらい慌ただしく、また挫折とフラストレーションに満ちた日々であった。自分の夢にすがってかろうじて日々を生き延びていくこと、それが彼らにできるすべてだった。ブルースはコミュニテイー・カレッジを追い出され、バンド活動で食うや食わずの毎日だったし、カーヴァーはなんとか大学に進み、大学院に進んだものの、妻と幼い二人の子供を抱えて、生活を維持するのが精一杯だった。生活の合間に小説を書きまくっていたが、ほとんど金にはならず、そのフラストレーションから酒に溺れることになった。カウンター・カルチャーやヒッピー・ムーヴメントは結局のところ、金持ちの大学生が中心になって展開されていたものだったし、彼らにとってはそれは基本的に「よそ事」の世界だった。― 「60年代シンドローム」を回避したこの二人の作風に共通するのは「徹底したリアリティー」であると村上は言う。それは「荒々しい、痛々しいまでのリアリティーだ」。もう一つは ―安易な結論づけを拒む「物語の開放性=wide-openess」を彼らが意識的に、積極的に採用しているところだ。彼らは物語の展開を具象的にありありと提示はするけれど、お仕着せの結論や解決を押し付けることはない。そこにリアルな感触と、生々しい光景と、激しい息づかいを読者=聴衆に与えはするが、物語そのものはある程度開いたままの状態で終えてしまう。彼らは物語を完結させるのではなく、より大きな枠から物語を切り取っているわけだ。そして彼らの物語にとって重要な意味を持つ出来事は、その切り取られた物語の枠外で既に終わっていたり、あるいはもっと先に、やはり枠外で起ろうとしていることが多い。それが彼らのストーリーテリングのスタイルである。読者=聴衆はその切り取られた物語とともにあとに残され、その意味について考え込むことになる。しかし読者=聴衆が考えなくてはならないのは、シンボルや隠喩についてではない。テーマやモチーフについてでもない。そういう学術用語は、ここではあまり意味を持たない。彼らが(我々が)真剣に考えなくてはならないのは、その「切り取られた物語」が、我々自身の総体的な枠の中にどのように収まっていくのか、ということについてである。その物語に込められたbleakness=荒ぶれた心は、我々の内なる部分のどこにあてはまっていくものなのだろう?そしてその心は我々をどのような場所に連れて行こうとしているのだろう?我々はその閉じられていない物語を前にして、そう考え込むことになる。それはほとんど当惑に近い感情である。―― 長い引用になったけど、書き写しながらいろんなことを考えた。ここにあるのは村上の自作の解説でもある。私がすぐ思い浮かべたのは「海辺のカフカ」。つぎに、谷川俊太郎の詩の方法なども、もしかしてここに村上が解説しているカーヴァーやブルース・スプリングスティーンのそれに近いのではないか。こういうふうにとらえてみて初めて分かる谷川俊太郎もいるのではないか。 本は女房が去年買ったもので、彼女はこの中のシューベルトについての章に関心があったから読んだということらしいが、私は女房から借りて「国民詩人としてのウディ・ガスリー」という章だけを読んだのだった。歌手や音楽についての本だから、カーヴァーに言及しているなんて思ってもいなかったのだ。ウディ・ガスリーのところを読み、女房に返しておいた。女房はその本を、アメリカに住んでいる娘のところへクリスマスプレゼントということで送った。そこまでの話は去年のこと。 私は「樹が陣営」という佐藤幹夫さんの雑誌に、頼まれて北川透氏の『谷川俊太郎の世界』(思潮社刊)の書評を書いた。その最新刊の30号だ。そこで80年代の谷川・北川の両氏の仕事をアメリカの80年代詩人カーヴァーと乱暴にもならべて、この三者の共通点を北川透が谷川俊太郎を評した「異様な貧しさ」と言うキーワードでくくってみた。 「樹が陣営」30のなかの私の書評を読んでくれた京都の高野さんが、村上春樹の『意味がなければスイングはない』のなかにブルース・スプリングスティーンとレイモンド・カーヴァーのことを書いた章があるということを、そのblogで教えてくれた。女房に話したら、なんと村上のその本があるというではないか。娘に送ったあとに、新しくまた購入したらしい。それを急いで読んで、以上のことを書いた。 同書にあるブルース・スプリングスティーンの「ボーン・イン・ザ・USA」、多分村上の訳だと思う、 救いのない町に生れ落ちて 物心ついたときから蹴飛ばされてきた。 殴られつけた犬みたいに、一生を終えるしかない。 身を守ることに、ただ汲々としながら。 俺はアメリカに生まれたんだ。 それがアメリカに生まれるということなんだ。 Born down in a dead man’s town The first kick I took was when I hit the ground You end up like a dog that’s been beat too much Till you spend half of your life just covering up Born in the U.S.A I was born in the U.S.A. I was born in the U.S.A. Born in the U.S.A. 村上春樹はこの曲は「日本においても、アメリカにおいても、往々にして単純なアメリカ礼賛の歌として捉えられているようだが、実はこの歌の内容もかなり殺伐としたものだ。こんな歌が数百万枚を売るヒット・シングルになったということ自体、ちょっと信じられないくらいだ。ロック音楽史上で、これくらい誤解を受けた曲もないかもしれない。」と書いている。にもかかわらず、この曲の商業的成功の多くの部分が作者の意図を超えてレーガニズム誕生を支えた大衆のエトスにあったという鋭い指摘もなされている。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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