カテゴリ:essay
MIRANDA DO DOUROというポルトガルの国境の町から、葉書が今日届いた。福間健二が3月17日付けでそこから出したものだ。「Tras-os-Montes(山の向こう)という名の地方で、もともとはミランダ語が話されていたというわけで、すっかり気に入ってしまいました。明日はここから、スペインのサモラにタクシーで向かいます」とある。そして福間夫妻は24日に日本に帰ってくる。
この絵葉書を眺めながら、そこにある青空の下の堅固な石つくりの建造物を眺めながら、僕は旅心を刺激させられている。「いる」のだが「行けない」という、ビールはやっぱり「とりあえず」みたいな陳腐な感想を飲んでいるわけだ。 そして机上には倉田良成(解酲子)が送ってきた「メタ」14号の「小さな演奏会」と題された文章がある。奥さんのかつての教え子(声楽・オペラ)の演奏会の感想なのだが、倉田さんの捉え方にいつものように目を見張る。彼は「こうもり」のロザリンデを歌う大和千賀子さんの向こうに折口・柳田的な「芸能者」を幻視するのである。 ―― 舞台上で大和は歌い、笑い、あるいは恐怖に身を震わせ、男の肩にしなだれかかる媚態を見せ、大きな悲しみに耐え、滑稽に怒り、さいごに羽のような軽さで、じぶんをハンガリーの貴婦人と思い込んでいる男からあっという間に大切な時計を取り上げて舞台上から立ち去る。この瞬間、小ホールにいたすべての聴衆の時間も盗み取られたのだ。ハンガリーの貴婦人を演じているロザリンデに扮している(とみんなが思い込んでいる)、大和千賀子という芸能者のかたちをとって、今夜このホールで嬉遊している、なにものかに…。―― この「なにものか」とは何者なのか? ありふれた願望とその実現の不可能がフォークロアの起動力になるとき、ヒーローすなわち「貴種」との「同一視」がその矛盾の悲惨と栄光そのものであり、その浄化でもあるというのが「芸能」の意味であろう。 「山のむこう」には何もない。「無」しかないのだが、そこではしかし「なにもの」かが歌い、笑い、恐怖に身を震わせている。これは確かなことだ、今でも。 倉田さん、ここまで書いていると、急にラジオでなつかしい曲がなりはじめた。Djangoだ。Oscar Petersonのピアノだけど、とてもいい。泣けるね。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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