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What the Doctor said ( Raymond Carver)
He said it doesn’t look good he said it looks bad in fact real bad he said I counted thirty-two of them on one lung before I quit counting them I said I’m glad I wouldn’t want to know about any more being there than that he said are you a religious man do you kneel down in forest groves and let yourself ask for help when you come to a waterfall mist blowing against your face and arms do you stop and ask for understanding at those moments I said not yet but I intend to start today he said I’m real sorry he said I wish I had some other kind of news to give you I said Amen and he said something else I didn’t catch and not knowing what else to do and not wanting him to have to repeat it and me to have to fully digest it I just looked at him for a minute and he looked back it was then I jumped up and shook hands with this man who’d just given me something no one else on earth had ever given me I may even have thanked him habit being so strong よくないね ずっと悪い、実際ひどいよ 肺の32個の癌腫を数えたところで数えるのをやめた、と彼は言う ありがとう、それ以上そいつがそこにあるなんて知りたくないからね、と僕は言う あなたは森の中で跪いて助けを求めるような宗教的な人間? 滝に到達する、飛瀑の滴があなたの顔や腕を吹き上げる そういうとき、あなたは立ち止まって、それらの意味することを考えてみようとする人間ですか? いや、まだと僕は答える、でも今日からそんなふうに始めるつもりです 本当に悪かった、と彼は言う あなたに何か違うニュースを知らせることができたらいいのにと彼は言う 僕はアーメンと言った、彼は全く別のことを言った 僕は聞き取ることができなかった、他に何をしたらいいかも分からない 彼に繰り返して欲しくもない 僕自身も充分にそのことを理解する必要もないと思った(―あるいは全く反対の意味かも知れない―水島註 そしてぼくはそのことを充分に飲み込まなければならない、「死」のことを言っているのかもしれない、andという接続詞の役目がよくわからない、つまり、前のnot wantingがここも生きていると考えて、最初のように訳したのだが、そうじゃなくて、この括弧の中の訳のほうがいいのだろうか。) ぼくはただ彼を見た 少しの間、彼も僕を見返した、ちょうどそのときだった 僕は急に立ち上がった、そして彼と握手を交わした、地球上の誰もが 与えることのできない何かをぼくに与えたこの男と I may even have thanked him habit being so strong(この最後の一行がわかりません、だれか教えてください)。 たぶん、この詩はカーヴァーの晩年の実際のエピソードをもとにしている詩だろう。彼は肺がんで死んだのだが、その悪化を知らせる医者の知らせをもとにして、それに対して、thankfulnessを伝えるという転倒がこの詩のカーヴァーらしい書き方なのだが、どうも簡単そうだと思ったのが間違いで、よくわからぬままに終わってしまった。アメリカ在住の友人たちよ、これを読んでいたら教えて、いやここにもいる英語自慢の友人たちよ、おなじく、諸氏のhelpをask forするものなり。 これは彼の最後の詩集、A NEW PATH TO THE WATERFALL(1989)にあるもの。話は変わるが、1993年にサルマン・ラシュディがニューヨーク・タイムズに” A 4-Year Death Sentence, and Counting”という文章を寄稿していた。ひょんなことからそれを見つけ、今読んでいる。全部読み終わったところで、この原文もここにすべて出すつもりなのだが、その冒頭に実はカーヴァーのこの詩が出てくるのである。(ラシュディのこの文は、おそらく、無神論と宗教、国家などについての考えを深めるのに参考になると思う。ジジェクの文に関連して。) Four years. It’s been four years and I’m still here. Strange how that feels simultaneously like a victory and a defeat. Why a victory? Because when, on Feb.14, 1989, I heard the news from Teheran, my instant reaction was: I’m a dead man. I remembered a poem my friend Raymond Carver about being told by his doctor he had lung cancer: He said are you a religious man do you kneel down in forest groves and let yourself ask for help…I said not yet but I intend to start today But I’m not a religious man. I didn’t kneel down. I went to do a TV interview and said I wished I’d written a more critical book. Why did I say that? Because when the leader of a terrorist state has just announced his intention to murder you in the name of God, you can either bluster or gibber. I did not want to gibber. And because when murder is ordered in the name of God, you begin to think less well of the name of God. こういう分かりやすい文章でラシュディは始めている。彼に宣告された死のfatwaはまだ生きているのだろうか。友人のカーヴァーは肺癌によって1988年の8月に死んだ、その翌年の2月にラシュディは彼の「文学上」の「子ども」である”The Satanic Verses”によって死刑宣告を受け、そして、4年は過ぎ、なんと現在で17年がカウントされている。ここで書いているように、その刑期のここまでの延長は、今でもラシュディにとって、「勝利」と「敗北」の同時性を常に抱かせる奇妙なものなのだろうか。決して「跪かない」人間と、自分の死の知らせを持ってきた男に「感謝」の念を抱くもうひとりの人間。ここにはいずれにせよ「人間」としか呼びようのない存在が確かに感じられる。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
April 5, 2006 12:01:32 AM
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