詩人たちの島

　明日、鎌倉遠足に行くので、思いついて小林秀雄の『中原中也の思ひ出』を読み返してみた。どのお寺に行こうかと考えたとき、小林の『思ひ出』の冒頭に出てくるお寺は？と気になったのである。中也と二人で、このお寺の名物だった海棠の落花を眺める場面がある。

―　晩春の暮方、二人は石に腰掛け、海棠の散るのを黙つて見てゐた。花びらは死んだ様な空気の中を、まつ直に間断なく、落ちてゐた。樹陰の地面は薄桃色にべつとりと染まつてゐた。あれは散るのぢゃない、散らしてゐるのだ、一ひら一ひらと散らすのに、きっと順序も速度も決めてゐるに違ひない、何といふ注意と努力、私はそんな事を何故だかしきりに考へてゐた。驚くべき美術、危険な誘惑だ、俺達にはもう駄目だが、若い男や女は、どんな飛んでもない考へか、愚行を挑発されるだろう。花びらの運動は果てしなく、見入ってゐると切がなく、私は、急に厭な気持ちになつて来た。その時、黙つて見てゐた中原が、突然「もういいよ、帰らうよ」と言つた。私はハッとして立上り、動揺する心の中で忙し気に言葉を求めた。「お前は、相変わらずの千里眼だよ」と私は吐き出す様に応じた。彼はいつもする道化た様な笑ひをしてみせた。―

「中原中也の思ひ出」のなかでも、とくに鮮明に印象に残る名場面である。完璧な造化の演ずる「花びらの運動」に見入り、それを青春の惨劇として模倣してきた二人がそこにいる。今はその「運動」から遠く見離されて、でもそんな年齢でもないのに、この二人は自らの近くにあった青春を、実に遥かな過去のものとして眺めようと努めている、そうでもしないとまた大きな真っ黒な「穴」が二人を飲み込んでしまうとでもいうように。「もういいよ、帰らうよ」という中也の言葉は確かに小林のすべてを見通していた。

このお寺は「妙本寺」だった。そしてもう一箇所のお寺は、

―　中原は、寿福寺境内の小さな陰気な家に住んでゐた。彼の家庭の様子があまり淋し気なので、女同士でも仲よく行き来する様になればと思ひ、家内を連れて行ったことがある。真夏の午後であつた。彼の家がそのまま這入ってしまふ様な凝灰岩の大きな洞窟が、彼の家とすれすれに口を開けてゐて、家の中には、夏とは思はれぬ冷たい風が吹いてゐた。四人は十銭玉を賭けてトランプの二十一をした。無邪気な中原の奥さんは勝つたり負けたりする毎に大声をあげて笑つた。みんなつられてよく笑つた。今でも一番鮮やかに覚えてゐるのはこの笑ひ声なのだが、思ひ出の中で笑ひ声が聞こえると、私は笑ひを止める。すると、彼の玄関脇にはみだした凝灰岩の縁が見える。滑らかな凸凹をしてゐて、それが冷たい風の入口だ。昔ここが浜辺だった時に、浪が洗つたものなのか、それとも風だつて何万年と吹いてゐれば、柔らかい岩をあんな具合にするものか。思ひ出の形はこれから先も同じに決まつてゐる。それが何が作ったかわからぬ私の思ひ出の凸凹だ。―

　「思ひ出の中で笑ひ声が聞こえると、私は笑ひを止める」こういう文は小林にしか書けないものだろう。そして、自然と時間が凝灰岩に及ばす変化の力を語りながら、急に自らの「思ひ出」の形の変わらなさ、その凸凹に固執してみせる、そのことが中原への何よりのレクイエムになるとでもいうように。今回読み直して見て、この部分が一番心にこたえた。中原の陰気な家は実朝・政子の墓のある寿福寺境内にあったのである。彼はここで1937年十月二十二日に死んだ。告別式は24日寿福寺で行われた。30歳だった。

寿福寺と妙本寺に明日は参ってこよう。