カテゴリ:essay
2日の鎌倉は寒かった。雨もひどく降った。午前中は八幡宮の境内にある近代美術館にずっといた。特別展示は高橋由一から岸田劉生などにいたる所蔵画をならべた近代絵画の歴史というようなものだったが、藤田嗣治の大きな裸婦像、たしか「二人の裸婦」というようなタイトルのものがあって、これはよかった。あの乳白色の裸婦をじっくりと拝んできた。昼食も美術館のカフェのようなところで、ドライカレーとコーヒーのセットを食べたが、おいしかった。客はぼく一人だった。やはり一人のシェフ兼オーナー兼レジ係りの妙齢の美人が、この美術館で出しているPR雑誌「たいせつな風景」というのを五冊くれた。年二回発行しているものらしい。5号は2006年3月発行。これが新しいものだ。エッセイを主体とした瀟洒な雑誌である。
その4号は「水」特集なのだが、高木隆司という神戸芸術工科大の先生が「水―価値基準の根底にあるもの」という題で書いている。 ― 水は多くのイオン(電気をおびた原子や分子)をよく溶かし、それによって電気を通すようになります。一方、水は、油やたんぱく質を溶かしません。この性質は、生命が生まれるために必要なものです。たんぱく質と脂肪からなる細胞が水に溶けてしまったら、生命体が作れませんからね。そのほか水の特殊性示す事実はいくつかあります。結局、水は特殊な物質であり、一方、それが私たち生き物の存在を可能にしているのです。 水が体内に豊富にあり、私たちに見慣れたものであることから、私たちは、水とはありふれた普通の物質であると思い込んでしまう。もっとも、水によって生存している私たちにとっては、そう思っても特に間違っているとはいえません。のどが渇いたときの一杯の水ほど、心に安らぎを与えるものはありません。自分という主体を離れて、わざわざ客観的になる必要はないのです。― これを読んでいて、面白いなあと感じたのは、この人のものの見方が実に「生きられた経験」「直接性」?というようなものを大切にしていると思ったからだ。「水」でさえもちろん「特殊な物質」である、しかし「自分という主体を離れて、わざわざ客観的になる必要はないのです」というのは、うまくいえないがなにか一つの教え、たいせつな教えのようなものとしてぼくには読めるのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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