カテゴリ:書評
――文化とその信奉者の関係は必ずしも隣接して連動するのでもなければ一枚岩的でもない。また文化とは浸透性のものであり、概して、政治体制間に引かれた防御線のようなものだと、わたしたちが考えることができるならば、もっと明るい見通しがひらけてくる。よって<他者>とは存在論的に所与のものではなく、歴史的に構成されたものだとみなすことができれば、ふつう文化にありがちな排外主義的な偏向性(わが国の文化はとくにそうだ)も弱まっていくだろう。そうすれば文化は支配と放棄の、記憶と忘却の、強権と従属の、排外性と共同性の圏域として表象されることになるかもしれない。
そしてすべては、わたしたちが住まうグローバルな歴史のなかで生起するのだ。それゆえ故国喪失、移住、越境といった経験は、新しい物語形式―ジョン・バージャーの言い方を借りれば、べつの語り方―を、わたしたちに授けるものとなる。このような目新しい運動が、専門的な人類学者ではなくて、もっぱらジャン・ジュネのように想像力にめぐまれた例外的人物や、あるいは国家が定めた境界を大胆に撹乱しながら侵犯してゆくバジル・デイヴィッドソンのように、強い政治意識をもった歴史家たちにのみ許されるものであるのか―わたしにはなんとも言えない。 ただいずれにせよ、わたしが言いたいのは、ジュネやデイヴィッドソンがもっていた扇動的な力こそ、あらゆる人文科学・社会科学の諸分野にとって、帝国という恐るべき障害と戦い続けるうえで必要とされるものであるということである。―― サイード「被植民者を表象する」より 文化を考えるとき、とくに日本文化という特殊なものを表象しようとするとき、それが当然のことだが「支配と放棄の、記憶と忘却の、強権と従属の、排外性と共同性の圏域」としてあることを忘れてしまいそうになる。文化も実は「他者」と同様に「存在論的に所与のものではなく、歴史的に構成されたもの」である。「わが国の文化」とサイードが書いているところを、ぼくは「わが国」すなわち日本として読んでしまったが、サイードの意識ではもちろん「アメリカ」である。 「文化とは浸透性のものであり、概して、政治体制間に引かれた防御線のようなもの」という定義に惹かれたのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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