カテゴリ:書評
「戻れない時間」が近代以降の時間なら、円還する時間は近代以前の共同体や祭りの時間の表象であろう。今日届いた倉田良成の本『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉を ほんの一滴 倉田良成芸術論集』(笠間書院)の後記に倉田は次のように書いている。
―― 気ままな物見遊山の印象記である本書では、ほぼこの「戻れない」時間観というものを疑うというか相対化して、虚心坦懐に絵や音や言葉、また芸能表現の現場に向き合ったらどう感じたかということを書いてみた。近代以前が全部いいか、と切り口上で問われるととても困るのだが、「今と違った」往古というものにとても興味がある。少なくとも往古の表現類は「今と違った」感覚をもってものされたのは疑いがないが、これは意外に重要なことなのではないだろうか。「今」のままではこれ以上やってゆけないことに、もう誰もが気づき始めている。―― 誰でも言いそうな言葉のように聞こえるが、ここにはとても切実な「気づき」、あるいは倉田良成における「回心」とでも呼べそうなものがある。――少なくとも往古の表現類は「今と違った」感覚をもってものされたのは疑いがないが、これは意外に重要なことなのではないだろうか―というところ。当然だろうか、そうではない。この初の「芸術論集」で倉田がやっているのは、「今と違った」感覚への驚嘆であると同時に、それをこの「今」において味わう、その強烈で切ないほどの歓びの披瀝である。解釈でも批評でもない、もちろん鋭い解釈と批評はふんだんにあるが、そんなところに倉田がとどまるはずはない、彼はそこからしっかりとした咀嚼力で、「今と違った」ものを味わいつくすのである。近作のエッセイ<「一人で考えること」―石川和弘『野原のデッサン』について>もすばらしいものだったが、倉田はそこでアウグスチヌスの「回心」に石川の稀有な詩的体験を重ねている。そこから言えることは、倉田自身もアウグスチヌスの「回心」めいたもの、「取りて、読め」を経験しているのである。この芸術論集で取り上げられている「対象」のすべてとは言えないが、すくなくはないそれら「今と違った」感覚との出会いを通して。 ぼくは、今日職場から帰ってきて、この書物に出会い、そのページをくりながら、そこから立ち上がる「匂い」をしばらくかいでいた。今これを書きながら、また鼻におしつけてみる。自分が猫になったように、くねくねとして体のすべてをこの本にぬりつけている、そんな錯覚にとらわれる。これは倉田良成の本でありながらおれの本でもあるというようなわけのわからない興奮、そして歓び。 倉田さん、ありがとう! お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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