カテゴリ:essay
―エッセイという形式は、動揺(=脱―構成)と未完成を表現するものだ。その思索の範囲は、しばしば、エッセイの、時機に左右されるという性格に規定される(批評エッセイとは、つまるところ、外部の出来事が生じたり、書物や絵画が話題になるときに求められるものなのだ)。ほとんどのエッセイが向う先は、断片やアフォリズムであって、単行本や学術論文ではまずない。アドルノは言う――「エッセイとは、ぬきんでて批評的=危機的クリティカルな形式である。(中略)そして、もしもエッセイが、立場を明確にしていないとか、相対主義に向っていると非難されるなら―なにしろ、エッセイは、それ自身の外部に、いかなる立場も認めないのだから―、その非難が暗黙のうちに含んでいるのは、真理は「既製品」でないといけないという考え方であり、さまざまな考え方を格付けする階層秩序の存在なのだ」。― サイード「R・P・ブラックマーの地平」より。
アドルノの言葉を引いて、サイードが言おうとしていることは何か?またブラックマーについても私は殆ど知るところはないが、「動揺と未完成」という、言われてみれば当然のようなエッセイに対する考え方なのではないか。 「既製品」の真理や格付けをクリティカルな形式のなかで破砕すること、そのためにはエッセイという形式に対する醒めた認識が必要である。いや自らのエッセイをクリティカルな形式に化するためには何が必要なのかを考えなければならない。 文体だろうか?それも大切だと思う。今考えているのは、「経験」の伝達や共有、それを「主張」の形ではなく、批判・批評を互いに許容する「試み」として、書くこと。危機を公開、指摘し、その危機を支えあうような、文章がエッセイの「動揺」であり「未完成」なのではないか? うまく言えなかったけど、こういうことを考えていた。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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