カテゴリ:書評
倉田良成さんの『ささくれた心の滋養に、絵・音・言葉をほんの一滴』(以下、『一滴』)(笠間書院)の書評を書くためにすこしずつメモを取りながら読み返しているのだが、倉田さんのなんというか「知」のあり方というのにあらためて目を見張る。
絵画論・音楽論プラス古典芸能論・書評やウィトゲンシュタインの「論理哲学論考」評や俳諧について書かれたものを大きく分けて三部とし、「絵・音・言葉」と名づけたのであろうが、私がこれらを通して聴くのは、あるいは幻視するのは、あるいは読むのは、彼が「世界の内と外 ウィトゲンシュタイン・ノート」で書いている、 ―世界にいること、つまり対象を官能し指示し認識している、というのが「私」であるという事実、言い換えればそれは必ずしも「ウィトゲンシュタイン」や「倉田良成」である必要はないが、限りなく比喩的に言って「心」をファンクションとしない世界は誰にとっても存在しないということである。極論すれば、存在にはつねに、言うなれば「透き間」がつきまとうのだ。この透き間が、言語にとっては本質的なのである。それは像を生む。透き間のないところに像は生まれず、言語の発生を支える心というのも存在しえない。― というようなことに還元されるものである。これは『論考』の考え、「言語」と「世界」の関係を「内的な写像関係」とみる、それを倉田流に解説したものの一つとして書かれている。もうすこし書かないとわけがわからないだろうから続けるのだが、しかし私がここで倉田が書いていることを理解しているかどうかは定かではない。 ―言語と現実のあいだ(に透き間があるという関係)は、写像関係にある。このことを「論考」はきわめてうつくしい比喩でもって語る。 レコード盤、楽曲の思考、音符、音波、これらはすべて互いに、言語と世界の間に成立 する内的な写像関係にある。(…)(童話に出てくる二人の若者、その二頭の馬、そして [若者たちの安否を表すとされる]彼らの百合のように。それらはある意味ですべてひ とつなのである。) たしかにそれらは「ある意味でひとつ」なのだ。ラという音符は現実のラという音とはまったく異なるものだろう。…それらが「一つ」である場所は、たとえ視覚的・聴覚的・触覚的に到達可能なものであっても、いかなる現実的な場所でもない。― すなわち「いかなる現実的な場所でもない」ということで、たしかにそれらは「ある意味でひとつなのだ」と私は考える。そこには「心」のファンクション(写像)としての世界があるのか、あるいは世界のファンクションとしての「心」が現前するのか私にはわからないが、倉田良成という人間が「世界にいること」、そこに透き間が生まれる。それが生み出すウィトゲンシュタイン的な「像」がある種の切なさを持って呼び出されている、それが実は「一滴」の「世界」像であるともいえるのではないか。もうすこし考えるべきだが、今日はここまで。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
June 26, 2006 10:18:24 PM
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