カテゴリ:music
まだ山のような仕事から脱け出せないのだけど、かすかな光のようなものが見えている。それでも4時間をこえる会議には心身ともにおかしくなる。もうぼくの体力も頭脳も限界である。はやくやめたいと何万回繰り返したかもしれない愚痴に似たつぶやきがため息と共に出てくる。
帰ったら女房からプレゼントがあった。立川の朝日カルチュアセンターで、吉増剛造さんの夏季限定の三回シリーズの講座の宣伝を見たという。これが奇跡的に夏休み中の土曜日、最後の一回は9月だけど。絶対に出たいと言うと思って、チラシをもって帰った。明日申し込むからね、と言うのである。いつも、疲れた、やめたい、やめたい、というだけのぼくをこんなことで励ましてやろうという魂胆なのだ。そのテーマがなんとまた「折口信夫・柳田国男・南方熊楠について」というのだから、それを聞いた瞬間、ありがとうと言うしかないではないか。あとは空きがあることを祈るだけ。 それとモーツアルトの22番のピアノ・コンチェルトのCD。ゼルキンのピアノ、アバド指揮のロンドン交響楽団のもの。1984年の演奏。今その有名なアンダンテを聴いている。少し「人間度」が増したような感じだ。モーツアルト自身がこれをウイーンの慈善演奏会で演奏した、アンコールに珍しいことだが、その2楽章のアンダンテを要求されたといういわくのある曲。 ところで、ゼルキンについて、サイードは次のように批判している。彼はポリーニを誉める、そのピアノ作品=文学(ピアノリテラチャー)の「まったく気軽な読み」を誉める。 ― ポリーニの演奏が、いつもこういう効果を生み出すとは限らない、実際、多くの人間が彼の、ときとしてガラスを思わせる、張り詰めた、それゆえ人をよせつけない完璧さについて語っている。しかし、その場合でも、だからといって彼の次のリサイタルへの期待が損なわれることはない。なぜならば、聴き手には、ひとつのキャリアが時間とともに展開していくという感覚があるからだ。ポリーニのキャリアには、成長、目的、形式が感じられる。悲しいかな、たいていのピアニストは、たいていの政治家同様、権力を維持することにしか関心がないように思われる。ここでわたしは、不公平かもしれないが、ヴラディミール・ホロヴィッツやルドルフ・ゼルキンのことを念頭に置いている。彼らは、途方もない才能に恵まれ、身を削って音楽に打ち込み、聴衆に大いなる快楽を与えてきた人物である。しかし、今の彼らの仕事は、私には自己模倣にしか感じられない。――(「演奏されたときを求めて ピアニスト芸術における存在と記憶」) これは卓抜なグレン・グールド論でもあるのだが、サイードの点数はどうしても巨匠然としたピアニストには辛くなりがちである。しかし、こちとらは素人だから、ゼルキンの自由自在なピアニズムに感嘆するだけでよい。 22番のアンダンテの出だしはレクイエムのような沈痛さでオケが響く、そのあとにおもむろにピアノが中音で、人の声のように、オーケストラの旋律部をくっきりと繰り返す。なんというか、はるばるとした憧れめいたものに曲調が変転するのである。それを受け継いでオケが…。その緊密な一糸乱れぬやりとりのなかで、高潮と沈潜が、破綻と収束が、きれいな、変な言い方だが、きれいな時間の流れのなかに編みこまれてゆく、そして、その対立をさらなる高みに押し上げてゆく、次第にフォルテに響き、ピアノの音は単音の強まりを誇示する。そして小さくオケが退く、ピアノはさらに歌う、オケを伴奏として。最後のユニゾン。 こういう夜があればいい。音楽とあこがれ。大台ケ原の森の植物たちの幻影。雨。こういう夜があればいい。響きとそよぎ。かすかな息継ぎ。命の小さな祝祭。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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