カテゴリ:essay
道東をめぐる2泊3日のパックツアーから帰ってきた。初めての北海道、見るものすべてが新鮮だったが、その殆どは、どこか大昔、あるいは生まれる前の記憶のなかで見たことのあるような感じがした。しかし、その広さには眩暈がする。釧路空港から帰ったのだが、その前にバスが立ち寄ったスポットは、釧路湿原を望む高台だった。そこから見た拡がりは、日本という範疇には入らない、巨大で寂しすぎる原野だった。手付かずの土地がある、ということ。ここから、まったく違う感受性を持った人が生まれうる、狭くひしめき合ったニホンの土地から生まれる一般的な感性とは異なる、ラジカルで厳しい感性を育むのではないか。移住者たちの広大なクニ、その関係においてアメリカ的な、開拓者の野望と先住民の受難の歴史の空間でもある。それゆえ、この土地の広さとその地勢的な位置取り、境界としての空間は、そこに生まれ、そこに育った人々の「生のスタイル」らしきものを否応なく規定している。これ以上、具体的には言えないが、ただ、この広大さと寂しさというのがぼくの取りあえずの北海道旅行の粗雑な感想だ。
旅行二日目の午後は、知床五湖のうちの1湖、2湖を、若いネイチャーガイドさんの手引きで一時間ほど散策した。これと、明くる朝、遊覧船で見た知床半島(ウトロ側だが)の断崖の佇まいとオホーツク海の、今は静かな波に、もっともこの旅行中感動したのである。 世事にこだわりたくなくなった、世事から離れたい、北海道はそういう気持を自然に、まさに自然に、再確認させてくれる。(ぼくの幻想に過ぎないことを重々承知の上で、書いておく) 以下、知床の断崖のうえの湖の写真、霧で何も見えなかったが、その見えないことこそが、この湖の、風光美をこえたさきにある自然の裸の姿である。それを写真に撮るものは本来馬鹿だが、人情には背きがたくて。 透谷の『三日幻境』にはアイルランドの詩人Goldsmithの詩の一節が引かれている。 ―― I still had hopes, my long vexation past, Here to return― and die at home at last ―― ここを故郷にした人々の壮絶な苦闘と喜びを思う。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
August 25, 2006 11:18:24 PM
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