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詩人たちの島

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October 19, 2006
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カテゴリ:essay
最近、現役の二年生から「九鬼周造知っていますか」などと言われて、ちょっとびっくりした。

昔、岩元禎について書いたことがある。ここに採録しておく。九鬼とは直接には関係がないが。

歩行のディスクール(46)  1993・1・16  (クラス通信2-2・保谷高校)より
昨日読んだ本。『偉大なる暗闇―岩元禎と弟子たち』(高橋英夫著 講談社学芸文庫)。岩元禎は旧制の第一高等学校(東大教養学部の前身)で明治32年から昭和16年までドイツ語と哲学概論を教えた。「長い一高の歴史を通じて、彼は数多い名物教授たちの中でも筆頭にあげられる、最も名高い教授だった」。M(この当時のクラス通信に私は私と等身大のMなる人物を出すことにより、かなり自由にいろんなことが書けた、怪我の功名のような人称の発明であった―蕃・注)の岩元に対する関心は彼が漱石の『三四郎』の登場人物<広田先生>のモデルだといわれてきたことにある。
与次郎は広田先生に「偉大なる暗闇」というあだなをつけるが、これを読んだ当時の一高生が岩元にそのあだなを転用したというのが事実で、漱石が岩元をモデルに広田先生を造型したということではなかったらしい。岩元と漱石はほぼ同年で、大学予備門から大学にかけて一緒に講義をうけた仲でもあるし、一高でも漱石は英語、岩元はドイツ語の教師として同僚であった時期もある。しかし漱石はほとんど岩元に言及していない。岩元も、伝えられたことばによると、「夏目は英語はできるんじゃよ、…だのに後でつまらんものを書きおってのう」というのがあって、それが唯一の漱石評だったらしい。
以上のような事実を挙げながら、高橋英夫は「偉大なる暗闇」という言葉でしか表現できない岩元と広田先生の内面の共通点にふれる。抜群の知識がありながら、彼らは著述をしなかった。高校教師として一生を終わった。だけどその強烈な個性で弟子たちを感化した。呪縛した。一生独身であった。師と弟子たちの形成する理想主義的な「友情空間」がなによりも尊重された時代があった。神への愛(アガペー)でもない、異性への愛(エロス)でもない、同質の理想を追求する師と弟子の愛の意味の探求(今、これを書き写していて折口信夫と弟子たちの関係もまさに、これと等しいとあらためて思う―蕃・追記)と現代におけるそのような「友情空間」の喪失が精神史の方法で述べられる。それが本書のテーマなのだが、岩元禎の人間像が弟子たちの回想や小説風の記述で語られる奇行としか呼べないエピソードを重ねて立ち上がってくるのもこの本の面白さの要因の一つだ。それほど岩元という人間の個性は強烈だった。

彼のドイツ語の授業は特別だった。生徒たちの教科書はドイツから取り寄せた原書、レクラム文庫。たまに生徒に訳させることはあったらしいが、殆ど岩元自身が訳読した。しかし、授業中はノートを取ることは厳禁。教科書に書きこむことも厳禁。あるとき、禁を侵して、原書に先生の訳を書き込んだ生徒がいた。岩元はその生徒の教科書をビリビリと引き裂いて、「代金は後でやる。教官室に取りにこい」。従って生徒たちは手を膝の上に置き、ひたすら岩元先生の訳読に傾聴するしかない。なぜなら試験では一字一句彼が訳した通りに訳さなければ容赦なく減点されるからだ。採点は辛くて、クラスの半分以上が赤点。
和辻哲郎と九鬼周造(Tよ、やっと九鬼がでてきたよ、蕃)。ともに京都大学で後に哲学を講ずる天才たちだが、九鬼が百点だったのに対して、和辻は55点。和辻の冷徹な批判的回想があるが、それによると岩元の採点法を一種の病理学的な偏奇(彼の美少年好み)のせいにしている。山本有三も岩元のために落第させられた多くの一高生のなかの一人だった。
今から考えるとめちゃくちゃだが、彼のこのような過激な授業と落第恐怖心とが彼を一層神話化していく。哲学の授業では眼にもとまらぬ速さでギリシア語を黒板一杯に書いた。そこのところを引用してみよう。「大正十年、哲学概論の最初の年に聴講した生徒に池谷信三郎、尾崎秀美、高橋健二、渡辺一夫らがいた。次の年には河上徹太郎、手塚富雄、竹山道雄、市原豊太といった人々がいた。三年生といってもギリシア語などまるで教わっていない。そこへいきなりプラトンの原文が黒板いっぱいに書き並べられている。単語ではなく、文章である。α、β、などどうやら知っている字が時々出てくるのがたよりで、ただノートに筆写してゆく。意味も何もない。ある生徒は、まるで暗号を写すようだと思い、別の生徒は、これではまるでギリシア語の写生だと思った。そのうえ写生しながら、イデアがどうの、ト・アペイロンがどうしたのと、ギリシア語が呪文みたいに岩元禎の口から飛び出してくるのを、茫然となって聞いている。わけがわからない。」偉大なる暗闇の面目躍如たるところである。
いつも一流の服を身につけていたが、それがボロボロになるまで着た。美食家で異常なほど潔癖だった。文字通り万巻の書物を購入し、すべて読破した。退職金はみな本代として消えた。彼の死後その蔵書は出身地の鹿児島大学に寄贈されて岩元文庫として秘蔵されている。一度も故郷には帰らなかった。昭和16年7月14日、72歳で死んだ。こんな人間もいた。――

(昔の生徒はこんなクラス通信を読んでくれたのだと思いながら、書き写した。今はフランス文学の博士である中村君も、休みがちだったが、繊細な文章を書いた小堀も、これを読んでくれたのだろうか?
そしてぼくに九鬼のことを尋ねたTも、そのほかのこういう方面に関心のある連中も、こういう不思議な岩元のような人物のことをちょっとだけでいいから想像してほしいもんだ。それがどういう意味を持つかなどとは尋ねないで。)






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Last updated  October 19, 2006 11:12:42 PM
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