カテゴリ:essay
先日、杳子が書いてくれたkeep on keeping onという言葉が、Bob Dylanの“Tangled Up In Blue”にある言葉だということを、今日聴きなおしていて気がついた。杳子はその父が、Dylanの邦題「血の轍」というアルバムを借りてきたということで、そこに出てくる「ブルーにこんがらがって」から、このフレーズを、気分の差の大きい父親のために、書いてくれたのだろう、そうでなくとも、このkeep on keeping onという言葉は今のぼくに一番お似合いの言葉ではある。広津和郎の散文精神のモットーとも似ているか?「どんな事があってもめげずに、忍耐強く、執念深く、みだりに悲観もせず、楽観もせず、生き通して行く精神」?
Dylanの詩では、次のようにこの句は現われる、 ------------- The only thing I knew how to do Was to keep on keepin’ on like a bird that flew, (おれがなすべきことでわかっている唯一のことは つづけることをつづけるということ、鳥が空を飛ぶように) ------------- そうとも、おれも鳥のように飛ぶだけ。 明後日には蔦やに返却しなければならないので、もう一回イブライムやルーベンやコンパイの演奏をBVSCで確認する。今度は女房も、5分でいいからと2階の自分の勉強部屋に呼んで、二人で観る。下にはDVDを再生する機器はないから。倉田君が言及していたイブライムの「クチナシの花」も聞きなおした。 倉田、五韻両氏のコメントがあるが、ぼくにはいわゆるラテンが、確かにニホンのキャバレーなどで流行していた記憶はあるのだが、それが、これらのキューバの音楽であったというような思いは全然ない。「見直された音楽」という捉え方は、実は一番非力なものかもしれないが、ぼくには強いのである。「アケミさん。8番テーブルご指名です。」と言う喧騒の中で、イブライムの「クチナシの花」が流れる、あるいはオマーラの「Veinte Anos」が。こういうあり方が最高であるのは確かだ。(でもぼくの貧しい記憶のなかにはない。)なぜならクーバ音楽の神髄は生活とともにあるのだから、これを言い換えれば、革命とともに、とも言えるし、信仰とともに、あるいはいっそう、堕落とともに、とも言いうる、それが生活だから。 五分でも、と呼びつけたぼくのカミサンは、パソコン上の映像を見ながら、欠伸などを催している様子である。恐るべきは、「美」なるものの判断の多様性であろう、「判断力批判」でカントがなんと述べたか忘れてしまったが、いわゆる「趣味」の好悪の違いというのは、決して過小評価してはならないものであり、その「多様性」に耐えるということ、その「多数性」を認めるということが、とりわけ大切なことである、ということを、私はカミサンの疲れた顔を見ながら実感したのである。そして、これはもっと大切なことだが、このような見方を私に教えたのは、この映画のなかのイブライムであり、コンパイであり、ルーベンであり、要するにこの映画のすべての登場人物であり、なによりもクーバ音楽であるということに帰するのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
Last updated
October 20, 2006 11:50:21 PM
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