カテゴリ:書評
小泉義之の「病の哲学」を電車のなかで読むのが楽しみだが、ここでなされている議論のすべてを理解できているわけではない。こういう文体は初めてで、ねばりつよい哲学者だと思う。ハイデッガーの「存在と時間」に食らいついて、それが結局は「日常生活を構成する幻想」の哲学的追認であるという指摘や、「安楽死」問題の原理を提供しているなどという議論の展開の仕方に、この人の独自のものがあるとは思う。面白くないわけではない、臓器移植とレヴィナスの「存在の彼方へ」との関連のさせ方なども。しかし、まだ私にはよくわからない。小泉が言いたいのは、生と死とを対立させ、そこに切断線や飛躍を設定する「哲学」の伝統はソクラテスから始まり(霊魂不滅論)、その陰に実はプラトン(ソクラテスが毒杯を仰いで―従容―として、あこがれの死の国に赴くとき、プラトンはソクラテスからすれば侮蔑すべき―肉体―の顧慮、すなわち病のために、実はその場にいたのではなかった)の沈黙があったのだが、それを隠蔽したのではないかということ、そして小泉自身はそのプラトンの側に立つという主張なのだが、私のように哲学に素人のものにはよくわからない。わからないが、そういう「読み」の新鮮さは目からウロコである。プラトンこそ悪しき二元論の元祖などと思っていたのだから。
「病」に眼をとめる、「死」ではなく。この本のポイントである。まだ読み終わっていない中間の感想。ただ電車の中で、この本を読むのは、なぜか「しっくり」するという思い。ハイデッガーのような「本来性」も、それを呼び覚ます「先駆的覚悟性」などは持ちえなくとも、この「頽落」そのものを生きている「現存在」たちが昨日の疲れをまだ癒しかねて不機嫌に座席を占めている。 「病い」の共同性というものはありえない。「病い」は常に排除されるが、通勤の無防備な乗客たちを見ていると、どんな頑健そうな男でも、傍若無人の高校生でも、ひそかな「病い」がその顔に浮かんでいるように見える。このまま電車がひっくりかえる、そういうことも全くありえないことではない。私の隣で鼾をかいている中年の会社員よ、きみの鼾のやさしさに私は気づくだろうか?そういうことはありえない、不機嫌なまま私はこの電車のなかで死んでゆくのだろう。それがすくなくとも私の「病い」ではありそうだ。 以上のような想像を許す展開になるのだろうか?明日もすこしずつ読みすすめてみよう。電車での行き帰りに。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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