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詩人たちの島

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December 23, 2006
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カテゴリ:essay
解酲子兄を皮切りに、石川さん、takrankeさんの拙文へのすばらしいコメントに感謝しています。

「読み進めよう」と私は小泉の本に対して書いたが、実はそれほど読み進んではいない。次第にこの人の「粘り強さ」が「独断」のようなものに感じられて、ある種の「違和」感がわいてくる。それにしても「病い」はこんなに「声高に」語られるものか?

―― いずれにせよ、現状批判の課題は明白である。病人の生を肯定して擁護すること、病人を死なせないことである。しかし、こんなことを書いても、現在では決して聞きとられないだろう。脳死状態・植物状態・末期状態を生き延びさせることなど、無意味に決まっていると言われるだろう。逆にそんな状態で生かしておくのは酷すぎると難詰されるだろう。答えは簡単だ。回復を願っているし回復を信じているからだ。もっと迫り上げて言っておこう。回復不可能なものの回復、治療不可能なものの治療、生存不可能なものの生存を信仰しているからだ。奇蹟が到来することを願っているからだ。私は死に淫する哲学に抗して、あるいは死に淫する哲学がどうのこうの以前にこの信仰を選んでいる。――(「病いの哲学」p154)

「希望」とはまさにこういう「信仰」に根ざすものなのだろうが、こういう小泉の「言上げ」が独自なのはあるいはそう見えるのは、「医療」の問題を、そのテクネーそれ自体の問題として論ずることなく(そういうことが可能かどうかは留保するとして)、「哲学」の問題と執拗にからめているからである。彼は日常的な「死生観」をハイデッガーのそれに代表させて、「死に淫する」とし、それを批判する。そして彼が新しく立ち上げるのは、死と生を二元論的に対置し、いや対置すれば、その帰結として生まれてくるだろう低次の生vs高次の死、高次の生vs低次の死などという西洋哲学の伝統の比較選択を拒否することである。なぜなら「回復不可能なものの回復、治療不可能なものの治療、生存不可能なものの生存を信仰しているからだ。奇蹟が到来することを願っているからだ」。私はこの本で、ジャン=リュック・ナンシーが「心臓移植」を受けた人であることをはじめて知った。ナンシーを小泉は彼の意見を補強すると言うより、むしろナンシーの考えから示唆を強く受けたことを述べている。「死に淫する哲学」の系譜の反対に、ナンシーやデリダ、フーコーを配置しようとするのである。そのナンシーの書『共同―体(コルプス)』からの引用と、それの小泉のパラフレーズを引いてみる、文体の特徴は「粘り強さ」にあると、私は言ったが、賛意を表する哲学者の考えのパラフレーズではそうでもない。これは当然のことであろう。噛み付く必要がないからだ。

――生命のある全期間に渡って、身体はまた一つの死せる身体、一つの死者の身体、私が生きながらそれであるこの死者の身体でもある。(ban注・ナンシーの心臓のドナーのことを考えよ)。死せるのか生があるのか、死せるのでも生があるのでもなく、私は互いに他の中に入り込んだ開放性、墓ないし口である。―

ナンシーのこの引用に続いて、小泉は、めずらしいことに無条件に解説抜きで展開する。
―― 個体の身体を見る仕方で、世界を見直してみよう。今、細胞や臓器はジェット機に乗って空を飛んでいる。生体の部分は資源となって市場を駆け巡っている。そして、世界にはさまざまな身体が散乱し分散している。分散しながら接触している。「様々な群衆、群れ集まり、雑然たる群れ、大量の集団、縦隊、不穏な群衆、急激な増殖、軍隊、潰走、パニック、階段席、行列、衝突、大量殺戮、死体の山、信徒共同体、散乱」(31頁・ban注・ナンシーの同書よりの引用)。まるでそこから不在の共同―体を現出させんとするかのように。――p 178

「散乱し彷徨する身体」は現代の身体であり、それを旧来の古臭い「死生観」の俎上で取り扱うことは不可能であるといいたいのだ。ナンシーの引用、レヴィナスの引用などを読むうちに、私はこの小泉の本が以前読んだ西谷修の「不死のワンダーランド」と奇妙にどこかで似ていることを思い出したのである。西谷はもっと哲学的であり(ということは死に淫しており)、もっと「ロマン」的であり、小泉は現実的であり、「功利」主義的であり、といった違いはあるが、両者に共通してあるのは、「散乱し彷徨する身体」というイメージであることにはかわりはない。ポスト・モダンの最良のものがここにはあるというべきか。それともこの本のように徹底して考えながらも、経済的効果のためにも「病者」を前面に出すべきであるという、「政策」にも応用できるという自信に満ちたもの言い(後書き)になると、私はどう評価してよいか正直なところとまどっている。従来のフランス、エクリチュール派(そんなもんがあったとして)のわけのわからなさがなつかしくもなるほど、ここで小泉義之という哲学者は「医療政策・医療現場」というリアルな場に向かって、おのれの言葉をきちんと届かせようとしているというべきなのか。

閑話休題、

私は古い人間なので、古い「死生観」についても書いておきたくなった。
―― …
春暮れて後、夏になり、夏果てて、秋の来るにはあらず。春はやがて夏の気をもよほし、夏よりすでに秋はかよひ、秋はすなはち寒くなり、十月は小春の天気、草も青くなり、梅もつぼみぬ。木の葉の落つるも、まづ落ちて芽ぐむにはあらず。下よりきざしつはるに堪へずして落つるなり。迎ふる気、下に設けたる故に、待ちとるついで甚だはやし。生・老・病・死の移り来たる事、また、これに過ぎたり。四季はなほ定まれるついであり。死期はついでをまたず。死は前よりしも来たらず、かねて後ろに迫れり。人皆死あることを知りて、待つことしかも急ならざるに、覚えずして来たる。沖の干潟は遥かなれども、磯より潮の満つるが如し。――(「徒然草」155段)

あるいは
―― 人死を憎まば、生を愛すべし。存命の喜び、日々に楽しまざらんや。――93段
おなじく
―― 人皆生を楽しまざるは、死を恐れるざる故なり。死を恐れざるにはあらず。死の近きことを忘るるなり。――

この日本中世の隠者ハイデッガーは、やはり生死二分法に陥っているのであろうか。そんなこととは関係ない視点で生死をまっすぐに見つめ、考えているのである。「無常」ということはやはり「理念」や「形而上学」的な問題ではありえない。

最後に、ナンシーの引用を読んでいると、ナンシー自身を読みたくなった。ここで私が考えることは、「命」という命法のかわりに、「身体」という存在の多様性を、現在の「教育再生」騒動の中に持ち込むことは可能かということである。「身体」の代理可能性、「私」たちではなく、「身体」たちは「互いに他の中に入り込んだ開放性、墓ないし口である」ということから、おそらく何か曙光がきざすのではないかという予感をかすかに今私は抱いている。





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Last updated  December 23, 2006 10:21:48 PM
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