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詩人たちの島

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December 30, 2006
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カテゴリ:書評
ここ何日か『戦争詩論』を読み返している。ここで一番著者が力をこめて言いたいこととは何なのかを考えながら読んでいる。

この本は次のような構成を持っている。

第一部としての「詩の戦争・戦争の詩」、これは明治的な「国民国家」の分解と同時に「帝国主義」の世界に不可避的に引き出されてゆく日本国家の道行きを、まず明示的ないくつかの「段差」を設けること、たとえば大逆事件、日韓併合、など、それと同時に「口語自由詩」の誕生をあげ、これらのものが「帝国主義」的なるものを証しているということがゆたかな例証をもとに述べられる。ここではアレントや橋川文三の示唆がうかがわれる。こういうところも私には著者の好みとしてして共感できるところだ。要するに「1910年代」を、国家論的?社会論?的・言語論的「転回」として設定することから『戦争詩論』は始まるのである。帝国主義段階から総動員の戦争期(ファシズム)になだれこんでゆく時代と「詩」の「対応」が揺るぎない論理でたどられ、批判される。その主な対象は、「モダニスト」の系列の詩人たちであり、「プロレタリア詩」の系統の詩人たち、言い換えるなら日本「近代」批判、「近代詩」(抒情的主体)批判を事とした思想と詩人たちである。たとえば様々なイズムの詩人たち、ダダイズム、アナキズム、主知主義、「詩と詩論」のかれら、未来主義、プロレタリア詩、などなど。これらに抗する詩人として、瀬尾があげるのは「近代詩」の詩人たち、明治ナショナリズムで育ち、その分解過程を、身をもって自らの詩に体現した詩人たち、いわずと知れた萩原朔太郎であり、高村光太郎である。この二人の太郎は、この本の中では皮切りのヒーローと、閉じ目のヒーローとしての役割を担わされている。両者とも、あますところなく「傷ついている」、あますところなく自らに生起した「事実」を「語りうる」可能性においてユニークであるからだ。それに比して、対象となった詩人たちの、「部品」としての言語観、単なる「移行」としての主体の置き換えなどが痛烈に批判される。

第二部は一部が時代を分節し、そこに総じてモダニズムの「戦争詩」がその方法の忠実な遂行のもとにあったという総論的なものに比して、具体的な詩人たちの詩を例証として読むという講義風のスタイルである。私個人の思い出として、この「講義」に何回か参加したこと、そこでの口調のなつかしい再現も感じるということなどを述べてもたいした意味は無い。その当時には、瀬尾育生がこのような壮大な論旨のもとに、いわば今までの「詩」に対するといってもよいだろう、伝統的かつ「社会」的な考えをゼロ地点にまで根こそぎに廃絶しようと考えていたなどと知る由もなかったのである。この部では私の大好きな伊東静雄も例外的に「戦争詩」のなかで、いい仕事をした詩人として取り上げられている。そういえば、西新宿のどこかのホテルの小さなホールで、瀬尾から命じられて、この伊東の「夏の終」を朗読したのではなかったか。これを書いて急に間違いに気づいた。実は伊東のこの詩は、第三部の「大江満雄の機械」の「補論3 敗北の暗示」で言及されているのだった。

第三部にあたる章では、大江満雄が単独で取り上げられる。かれもアレント的なモッブとして高橋新吉などと同様なダダ系統の詩人として出発したのだが、決定的に違うのは、ダダ的な放恣さに譲れないほどの「信」があったというのだ。容易に「移行」を許さないその信は彼を狂的なまでに戦争に加担する詩人にしたが、瀬尾は狂的ゆえに戦争さえも突き抜けてしまう彼の強さを発見し、そこに感嘆している。他のモダニストたちが価値「空位」にした内面、それこそ彼らの方法そのものであったのだが、そこに様々な「超越」者たちを呼び込むことで、彼らはいささかの損傷を負うことなく(これは当然「戦争責任論」としての吉本・鮎川問題系を呼び寄せるが、この問題に対しての瀬尾の考えは特に最後の部で述べられることになると思う)、つまり「転向」として、つまり、いわゆる「戦争詩」の詩人として、要するに今までの考えでの「詩人」として、いささかの痛痒もないのに対して、大江満雄はそこに滅びの果てに来るだろう「個人」という価値を期待していたというのが、瀬尾の考えである。これは1930年から1945年までの15年間の問題であろうか?原理論としての瀬尾、瀬尾としての原理論(こんなものはないと私は思うが)と言いたいほどの論理の厳密さのなかで、大江満雄という詩人のために一章を割くのは、ここにいたってもまだというべきか、「個人」の無さということに対する瀬尾の嗟嘆なのであろう。

第四部。これが本書の白眉であり、「原論」であることに対して異論はない。瀬尾は何を言いたいのか。どうして私はこういうことを繰り返すのか、いや瀬尾に要求するのか?彼は十全に言っているではないか。何を?

「詩」はその限定性において「非詩」に限定されており、「非詩」も同様である。しかし、その「限定性」を見誤り、「詩」に「非詩」的な当為の条件をいう「非詩」的思考は徹底的にダメである。(この関係、「詩」と「非詩」との関係は、吉本隆明によれば「逆立」であり、ということは瀬尾の論旨から言えば、「遠近法」的な、内部―外部の、近代の反省である、その意味で「モダニスト」の考えとは全く異なるということになるわけだ。)

ここまで書いて、急に酔いがまわってきたのでやめる。とくに( )にしたところは意味不明あるいはその通り。私は瀬尾氏に何か言いたくなったのだが、それが何かを忘れてしまった。そういうこと。

なぜか、去年の今日の日記を引用したくなった。映画の感想である。
さて質問、以下の人物たちで、吉本から引き、この瀬尾の本で一番大切なキーワードして用いられているターミノロジーに「意志的・情熱的身体」というものがありますが、あなたは以下の誰を、そうであると見なしますか?

――「モーターサイクル・ダイアリー」。チリの銅山(チユキカマタ)で、そこまで流れざるをえなくなるほどに追われ、食いつめたコミュニストの夫婦(面貌から彼らは明らかに先住民とわかる)と若いゲバラとその友人のアルベルトが一緒になる場面がある。この出会いは事実かフィクションか定かではないが、映画ではとても重要でゲバラにとっては決定的な出会いの一つとして描かれている。ゲバラというより、エルネストと呼んだほうが適切である。この映画はゲバラのことなど何も知らなくても十分に楽しめる映画である。アルベルトとエルネストというアルゼンチンの大学生の親友同士が一年余りをかけて彼らの大陸、南米をオンボロのオートバイで縦断する旅に出る、ロード・ムービーであり、二度とは帰らない青春をテーマにした映画でもある。

貧しさの極みを生きているけど、decentな生き方を感じさせるコミュニスト夫婦は、この学生ならではの贅沢な貧乏旅行中の二人に「旅の意味は?」という質問をする。「何のために旅をするの?」と。最高のトートロジーで若きエルネスト・ゲバラは応える、「旅をするために」。これこそが旅の意味である。この旅は「偉業」であるはずはない。でもハンセン病の患者たちとそれを看護するもっとも心優しき人間たちの間にさえ、大きな河が流れていて、居住区を画している。対岸の貧しく病んだ人々のもとに、「旅をするための」旅をしめくくる最後の夜にエルネストは誰も泳いだことのないその大きな河を泳ぎきり患者たちの歓呼で迎えられる、これは「革命」の純正な情熱の芽生えであり、だれも否定できない絶対的な理想主義の現れである、最初の確かな「偉業」。

このトートロジーと大河を泳ぎきる行為への情熱、それがゲバラを、いやたぶんそれが「革命」の意味を、いつもぼくらのそれとは異なるものにしている。南米大陸は一つであり、ロルカやネルーダの詩の言葉がそれを抑圧された人々の血のなかにまで沈潜することで証明している。

アンデスの涙を運んだ者よ
指をふみつぶされた 宝石細工師よ
自分の蒔いた種子のなかでふるえている農民よ
自分の粘土のなかに散らばってしまった陶工よ
この新しい生のコップに 注いでくれ
大地に埋められた きみたちの古い苦しみを
きみたちの血を  傷痕を        (ネルーダ・第12の歌・より)

この詩はネルーダの絶唱「マチュ・ピチュの頂き」の最後のパートの一部であるが、映画での二人の旅も、ここを訪れていた。幻の空中都市もそこで生活を営む人にとっては「地主」と「小作」の関係のなかにしかない、そういうことを若き学生たちは単純にしかし強く実感するのである。そこで会った農民の話を聴くことで。「旅をするために」すべての感受性を開放する、そういう率直さと強さがこの若者たちの素晴らしさである。そして、そこで得たものの悲惨さと貧しさから眼を背けない、眼を背けないことはイデオロギーに巻き込まれることではない、あなたの書くものは「まずい」とエルネストはお世話になった博士に包み隠さずに告げる、そのように自分で考えて自分で行動することにつながる何かである。

観念的なものに巻き込まれない。単線的であるが、その線は図太い、それをトートロジーとあえて呼んだのだが、その図太さは、自らが喘息に悩む病人であるという心細さと矛盾はしない。この医学生は医者を騙って旅行する場合もあるのだが、そこでも実に心優しいし、また恐ろしいほど率直でもある。次のようなエピソード、

貧しい瀕死の喘息の老女にエルネストは自分の喘息のための薬を惜しげもなく与える、彼女の手を握りながら、これで楽になりますよと語る、でも彼女は死ぬのだ。

二人の旅行が危機を迎える、バイクは故障し、食べ物も底をつく。そのときに大地主の家を見つけた。医者であるということを語ると、その地主は自分の具合を診てくれという。エルネストは彼の首の腫れ物をさわり、「腫瘍」だと断言する。そして自分には治せないという。アルベルトはそこまでは言わない。地主は彼らを追い出す。

この二つのエピソードの意味するものは単純でわかりやすい。でも、その通りなのだ、この映画は、「そのとおり」ということに、格別な意味を与えない。あるいはイデオロギーを与えない。でも、それが南米だとぼくは思うのだが、おかしいだろうか?それがゲバラという革命家を誕生させたものであるとも思う。

この映画は「シルヴィア」よりも面白かった。――





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Last updated  December 31, 2006 12:06:53 AM
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