カテゴリ:essay
昨晩のnhkのドキュメンタリーで、憲法誕生のころのことが取り上げられていた。見終わっての感想は何の新味もないものであった。GHQの関与やそれに対する当時の日本政府の対応などがいつものように扱われているだけだった。政府の草案要綱発表後、衆議院に上程され、戦後初の選挙後の最後の帝国議会でこの案が審議されることになるのだが、そのまえに芦田均を議長とする帝国憲法改正特別委員会(ほとんどの党や会派の代表により構成されている)にこの案が付託される。特別委員会の下にやはり芦田委員長で小委員会(これは共産党などの小会派が除外された)が設置され、細かい共同修正案が作成されることになる。nhkのドキュメンタリーの目玉は、今まで秘密にされていた、この小委員会での議事録が公開され、それによると、こうだったという形式のものだったが、公開されるまでもなく、昨日のドキュメンタリーでとりあげられていたエピソード、たとえば犬養健による第九条の前文に元気な文句を入れようとの発議から始まり、芦田による項目の入れ替え(このことが自衛のための戦争を許容する下地をつくる)や、森戸辰夫?による生存権の固執やなどは、すべて今までこの種の憲法誕生に関する本に紹介されたものではなかったのか。
マッカーサーと民政局、要するにGHQに対して、アメリカ本国の国務省や連合国を構成メンバーとする極東委員会との綱引きの微妙なバランスの上にこの憲法は成立したのだが、それにしても、憲法に対する意識、政治的な参加、新しい日本への期待、こういったものをふくめての当時の人々のうずまくようなエネルギーには感嘆せずにはいられない。義務教育の保障に関しては、政府案には明確な規定がなかったが、それを現行の26条2項「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする」に結実させたのは、名もない青年学校の教師たちの請願につぐ請願の運動の賜物であり、それをよしとしたGHQの教育課のオズボーン少佐(この人はミズーリの高校で社会科の教師をした経験があり、日本において社会科の創設にもかかわる)であった。当時の文部省は当然の如く、この請願を受け付けなかったのだ。こういう、日米の草の根(占領者と被支配者ではあれ、その意識のうえから)の協力もたしかにあったのだ。 総じて学者や専門家たちが戦前と戦後の変化の意味を悟らず、単に語句の問題として、国民主権にせよ、天皇の位置づけにせよ、ごまかして通過させようとした問題に関して、そこでとどまって考えたのは在野の人々であった。こういうことがあったのだということをもう一回真剣に考えてみる。小手先のドキュメンタリーの描く筋書きではなく、真にその過程でなにがあったかを調べてゆく。隠蔽されたものが一杯ある。未来にむけて隠蔽されたものが。そこを暴き、この憲法の60年を、本当にわれわれは生きてきたのかと問うべきである。確かにいえることは、だれにもこの憲法を「押しつけ」などといえる筋合いはないということだ。過去の天皇制の倒錯した信奉者を除いて。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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