カテゴリ:書評
悔いだが、もう少し早くこの本を読んでいたなら、というような感想が寝床で眠りにつく前に浮かぶのだ。そのあと、すぐに打ち消して、いや、だれもが話題にしなくなった頃こそ、その本の、その作家の旬なのだと思い返す。そして眠りに引き込まれる。
ジル・ドゥルーズの「記号と事件」という河出文庫のことを話しているのだが、これは本当に面白かった。「1972―1990の対話」という副題がついていて、初めて訳されたのは1992年だ(訳者は宮林寛)。フランス語も読めないぼくだが、この訳はとても気持がいい。訳者の後記も簡潔ですばらしい。その再再版ということになるらしい。 68年の哲学者というような括りは不要かもしれないが、ドゥルーズの鋭く、優しく、広く、繊細な行文や語り、それを支える考えを読んでいると、ここからいろんな人が、この日本にも、彼の「概念」を受け継ぎ、自分なりに展開してきた人たちが大勢いるということがよくわかる。ただし、日本の彼らは、そのソースをきまって明らかにしないことが多い、これはみっともないことである。こんなに包容力のある「哲学」をぼくは味わったことがなかった、もちろんぼくの勉強不足で、ガタリとの共著の大部の二冊、「アンチ・オィディプス」も「千のプラトー」も恥ずかしながら読んでいないが、この小さな「記号と事件」と題された文庫本を読むだけで、すべてがわかったような感じになる。でも、その感じは決してジルを過去の人として終わりにするのではない、彼は95年に自殺したけど(「自殺」という普遍的で、既成の概念を徹底して特異化するためにドゥルーズは「自殺」したのではないだろうかとぼくは思う。その「自殺」は彼の自殺であり、あなたの自殺ではなかったし、もちろん「私」の自殺ではなかった、そういうことは自明に見えるけど、そうでもない、そのことに反論したのだ、その何という軽さ、ばかばかしさ!でもその抗うことのできない現実の「事件」としての悲しさ!)、彼は生きているのだ。自らが書いたとおりに、 ―― 有機体が死んでも生は残る。作品は、それが作品であるかぎり、かならず生に袋小路からの出口を教え、敷石と敷石の隙間に一筋の道を残してくれるものです。―― こういう言葉を、くだらないテレビや、日々のくだらない疲労の合間に読むことだけで、誰かは今日も明日も生き残るのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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