カテゴリ:essay
倉田さんが、5月の終りに素敵な詩の一節を送ってきてくれた。この一編はどこで読めますか?もしかしたらいただいた幾冊かの詩集のなかにあるのでは?
短調よりも長調の曲のほうが好きになってきた 心の密林から救われたいからじゃない そのほうが悲しみがより高い気がするからだ きらめく葉に満ちた五月の木のしたを歩くのが好き 人生を終えるならこの季節に死にたい かぎりなく青い空のもとにただひとつ置かれたベッドの うえで かすかに流れてくる「Let it be」へ別れを告げながら (後略) (「マイ・フェイバリット・シングス」1995・8) こういうように言えたら、という思いが痛切に湧くとともに、暗い「心の密林」のなかを最後まで彷徨するしかないのか、などとも思ってしまう。振り払う気力がないのだ。じめっとした「悲しみ」がいつまでもつきまっとている、それがぼくの5月の正体だ。 この生きづくりにされたからだは きれいに しめやかに なまめかしくも彩色されている その胸も その唇も その顔も その腕も ああ みなどこもしっとりと膏油や刷毛で塗られている やさしい5月の死びとよ わたしは緑金の蛇のやうにのたうちながら ねばりけのあるものを感触し さうして「死」の絨毯に肌身をこすりねりつけた。(朔太郎「五月の死びと」) このねばりけのある「死」のイメージのなまなましさはまたどうだろう。「緑金の蛇」は生と死のヤヌスの暗喩である。 流動する蛇のような生と死、再生と死を繰り返しながら、そのエネルギーはいつまでも衰えることがない。そのイメージはしかし、「こすりねりつけた」という能動の動詞とは逆に、そうであるように強いられている生と死の悠久のイメージの片端を感じさせもする。負であるものが奔流のように放電されると、それは愚かにも権力に篭絡されていると見えつつも、それを打ち砕く閃光を放つ、そう言ってもいい。 「死」を篭絡することが不可能であるなら、「生」もだれも篭絡できない。「緑金の蛇のやうにのたうつ」ものを、きみのこころの密林に住まわしめよ、そこはあまりにもさびしいから。これは私自身に向って命じているのである。 お気に入りの記事を「いいね!」で応援しよう
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