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詩人たちの島

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June 14, 2007
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カテゴリ:essay
Leo Strauss(1899~1973)というGerman―born  Jewish―American political philosopherがいた。彼はシカゴ大学で長年教えた人だそうだが、アメリカのネオコンの知的な淵源であると、死後見なされた人でもあるらしい。

スラヴォイ・ジジェクがIn These Timesに寄稿した”The Dreams of Others”というタイトルの映画評を読んでいたら、この人の名前が突然出てきたので、Wikipediaでざっと調べたのである。

今年のアカデミー賞の外国語映画部門でオスカーを獲得した、ドイツ映画、Florian Henckel von Donnersmarck監督の” The Lives of Others”についてのものである。この映画の邦題はたしか「善き人のためのソナタ」というのだが、ドイツ語の原題はいずれに(英語か日本語)なっているのだろうか?私は見たいと思っているのだが、まだ見ていない。今は恵比寿あたりで上映しているらしいが、いつものように暇がないのである。見てもない映画の批評を読むというのも文字通り「隔靴掻痒」の極みだが、「汝の症候を楽しめ」(筑摩書房)という一冊の精神分析的、現代思想的ハリウッド映画批評の著者でもあるスラヴォイ・ジジェクの「読み」を知りたくて、読んだのである。

この映画、” The Lives of Others”は旧GDRの監視社会を真面目に描いたものだ。主人公の盗聴をこととするStasiシュタージ(秘密警察)の男と、彼にすべてを覗かれていた反体制的な劇作家夫婦(夫婦というより、夫の作家)との関係の変遷が、「壁」崩壊以前と以後の時代の変化とともに語られるものである。見ないで言うのだが、見たいと思っていろいろ調べたのだから、これぐらいの要約でも正確としたい、これ以上は言わない。

さて、いつものように?ジジェク氏はこの映画を認めない。次のように批判している。(以下、原文をあげることはしない。私の訳を信用しない方々は―すべてだろうが―In These Timesにアクセスし、すべからく原文につかれるべし。)

「この映画は単に個人的な気まぐれにドラマを結びつけることで、東ドイツの真の恐ろしさを捉えることに失敗している」というのがジジェク氏の批判の核心である。世評ではこの映画は、東ドイツ体制へのnostalgia、これをOstalgieと呼ぶのだが、それをセンチメンタルに描いたUlrich Beckerの”Good Bye, Lenin!”の「誤り」を修正するものとして、つまり、どんなにシュタージの恐怖が東ドイツの個人的な生のすべての毛穴まで貫通していたかを描いたものとして受け取られているらしいが、そんなことはないとジジェク氏は断言する。

劇作家の名前はドライマンというのだが、この監視される劇作家の造型にジジェクは文句をつける。要するにこんな矛盾した人物はいないというのだ。これはちょっと面白い。とくに東ドイツの体制下でこういう人物がいるはずがないというのだ。

「三つの特徴をかれは持っている。誠実であり、頭がよくて、体制を支持している。この三つのなかの二つの組み合わせだけは可能である。もしきみが誠実で、その体制に協力的であるなら、きみは決して頭がいいということにはならない。もし、きみが頭脳明晰で体制派ということなら、きみは誠実ではない。そして、きみが誠実で明晰であったなら、きみは体制をサポートするなんてことはしない」というのである。ところが、この三つを兼ね備えた人物としてドライマンは描かれている。ありえないというわけだ。それに、体制のトップとも親しいほどの大物なのに、どうしてもっと早くトラブルから脱出できなかったのか?ブレヒトなどの大物と同様に描かれているのだから。たぶんこのモデルはブレヒトなのだろうかというのは私の推測であるが。「なにか奇妙なねじれが物語にはあり、あきらかに史実と矛盾している」とジジェクは言う。このような歪曲の底に横たわるものを、さすがジジェク、「秘められたホモセクシュアル」であると抉り出していくのだが、詳しくは言うまい、これは映画を私が実際に見たときの楽しみにしておこう。

これに反して「牧歌的に表面上は見えるグッバイ・レーニンのほうがシュタージの過酷さのリアリティをカバーしている」。「いかなる英雄的な抵抗もGDRの体制のもとでは持ちこたえることは不可能だった。生き残るための唯一の道は狂気に逃れるか、現実との連結を断ち切ることにしかなかった」。

グッバイ・レーニンも私は見ていないが、この映画も見たくなった。ウィットが利いた映画らしい。主人公の母親像がすべてを物語る映画だが、この母親のイリュージョン(レーニン像の崩壊後もレーニンを信奉している、壁の崩壊後も東ドイツの体制がまだ存続していることを信じている、それを主人公の息子は壊さないように、なぜなら母親は壁崩壊につながるデモの当日にショックで心臓麻痺を起こし倒れたので、それ以上の現実の進行を息子とその友人は遮断してしまうのである、かれらは毎日偽りのビデオをつくり、昔の東ドイツのニュース番組にしたててそれを母親に見せている)を息子たちは守ってやるのである。ジジェクはこの映画のリアリティとそこにある解放への希望を認める。未だ絶滅しない革命や共産主義の純粋さへの夢。

同時に彼はこの映画をも欠陥がないわけではないと批判する。悪くとると、グッバイ・レーニンの全否定につながりかねない批判なのだが、「善き人のためのソナタ」よりよい、という前口上があるのでやわらいでみえる。「この映画の弱さは、ロベルト・ベニグニの”Life is Beautiful”と同様に、ひとのイリュージョンを保護することを倫理として支援する。母親の次の心臓発作を起こさせないようにするために母親のファンタジーを守るというのは、人の幻想を保護することが最高の倫理的な義務であり、それを認めるべきだという脅迫の手段と同様のものになる。この映画は、それでは思いがけなくレオ・ストラウスの―高貴な嘘noble lie―の必要性というテーゼを裏書するものになるのではないか。本当にそうであれば、コミュニズムの解放への潜在性はただナイーブな信奉者のために演じられ、信じられだけの―高貴な嘘―にすぎなくなる、実際はこの嘘はコミュニスト支配の容赦の無い苛酷さを隠蔽するものに過ぎない」

ということで、冒頭に戻るのである。

Leo Straussはnoble liesというテーゼを社会の結合の原理として提示している、これには反意語があって、それはdeadly truthsというのである。後者はニーチェの言葉らしい。退屈きわまりない真実ということか。

この国にも、このnoble liesの信奉者が確かに存在しているが、しかしそれは誉めすぎで、本当はdeadly liesを唱えているだけである。





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Last updated  June 14, 2007 11:35:45 PM
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